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2008/07/26

♪高校日本史講座☆1299 古代の天皇2

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♪高校日本史講座☆1299(2008-07-26)

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   古代の天皇(2)
 
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5.平安初期の政治


 平安京遷都は794年、桓武天皇によって断行されました。

 しかし、平安その400年後の平安末期から鎌倉初期を生きた鴨長明が
『方丈記』のなかで、
「大方この京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇{さがのみかど}の御時、都と
定まりにける・・」と述べています。
 これは平安末期の人々が、平城京への還都{げんと}を企てた平城太上天
皇{へいぜいだいじょうてんのう}と戦って勝利をおさめた嵯峨天皇(81
0年の薬子の変)こそ、「平安定都」の天皇と認識していたからです。
 
 桓武の子である嵯峨天皇は、父の政治を継承して律令制の再建につとめ、
蔵人所(蔵人頭に藤原冬嗣を登用。藤原氏北家発展にとっても画期的な出来
事でした)、検非違使などの令外官{りょうげのかん}の設置や、三代格式
の最初となる『弘仁格式{こうにんきゃくしき}』の編集を行いました。

 嵯峨は823年に天皇位を退いた後も弟の淳和{じゅんな}、子の仁明
{にんみょう}両天皇を支え、実質的に国政を指導しました。
 自身も空海、橘逸勢{たちばなのはやなり}と並ぶ唐風の書の名家(三筆)
であり、「文章経国{もんじょうけいこく}」を旨とする漢文学の隆盛を築
き、『凌雲集{りょううんしゅう}』『文華秀麗集』『経国集』の3つの勅
撰漢詩文集を編集しています。
(嵯峨は50人以上も子をつくり、「嵯峨源氏」という賜姓貴族をつくる先
駆者になりました。)



6.摂関政治と天皇


 842年、嵯峨上皇が死去した直後に起きたのが承和の変です。以後、藤
原氏北家が摂政、関白としての地位を固めていきました。
 ここで注意することは、摂政・関白は天皇の代行・補佐であり、天皇の権
限・権威に支えられて国政を指導したことです。

 858年−清和天皇即位(外祖父の藤原良房が事実上の摂政)
 866年−応天門の変(良房が正式に摂政に任命された)
 876年−陽成天皇即位(乱行のため、外戚の藤原氏でさえ廃位せざるを
      えませんでした。陽成は廃位から65年間隠居生活を過ごしま
      す。陽成の母は藤原高子。)
 884年−陽成廃位、光孝天皇即位(藤原基経に関白を依頼)
 887年−宇多天皇即位(基経を正式に関白に任命)→阿衡{あこう}の
      紛議
 891年−基経死去、宇多天皇は菅原道真を登用。
 897年−醍醐天皇即位(藤原時平を登用)
 901年−道真を大宰府へ左遷
 909年−時平死去(以後、醍醐の「延喜の治」が本格化)〜930年
 946年−村上天皇即位(「天暦{てんりゃく}の治」)〜967年
 969年−安和の変(藤原氏の地位が確立)

 村上天皇のあと、冷泉、円融、花山、一条、三条と、日本史の受験であま
り出ない天皇が続き、その後藤原道長の外孫(後一条、後朱雀、後冷泉)が
3代続いた後、藤原氏を外戚としない後三条天皇が登場しました。(彼自身
は藤原道長の曾孫にあたります)
 後三条の登場は、摂関全盛の終焉を象徴する出来事になりましたが、天皇
家にとっては一条天皇系と三条天皇系の皇統分裂(鎌倉末期の「両統迭立
{りょうとうてつりつ}にも似た事態)を回避する出来事でもありました。

(兄)1冷泉−3花山・5三条
(弟)2円融−4一条−6後一条・7後朱雀−8後三条(母は三条の子)
※冷泉・円融の父は村上天皇



7.院政時代の100年


 後三条の死後、その子・白河が1086年に子・堀河に譲位して院政を開
きます。摂関政治が母系制(天皇の外戚が国政を指導)によるものとすれば、
院政は父系制(天皇の父・祖父・曽祖父である上皇が国政を指導)によるも
のといえます。
 院政は、白河が1086年〜1129年の43年間、子の堀河、孫の鳥羽、
曾孫の崇徳を後見。ついで鳥羽が1129年〜1156年の27年間、子の
崇徳・近衛・後白河を後見します。
 この時代に上皇は多くの荘園を領有し(八条院領・長講堂領)、中世天皇
家の財政基盤を固めています。

 しかし、鳥羽と崇徳との不和が保元の乱(1156年)の原因となり、次
の「ムサの世(武家社会)」を招くことになりました。
 源平2大武士団が京周辺を拠点とするようになったのも、「南都・北嶺
{なんと・ほくれい}」とよばれた大寺院(興福寺・延暦寺)の武装勢力
(僧兵)が形成されたのも、院政期のことでした。鎌倉幕府の先駆的な武家
政権ともいうべき奥州藤原氏の平泉政権(平泉幕府)が樹立されたのも、院
政期初期のことでした。 

 40年近くの後白河院政は、平氏政権樹立、源平内乱、鎌倉幕府の開設の
時期と重なります。(1192年の後白河死去とともに源頼朝は晴れて征夷
大将軍に就任します。)



練習問題(センター試験・2007追試験)−−−−−−−−−−−−−− 
 
 次の史料を読み、設問に答えなさい。

「この日、中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂、殿上{てんじょう=内裏
の殿舎}に侍{はべ}る。勅{ちょく=天皇の命令}有りて参議右衛士督従
四位下藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下菅野朝臣真道とをして天下の徳政
{とくせい=善政のこと}を相論せしむ。時に緒嗣、議して云{いわ}く、
方今{ほうこん=まさに今}、天下の苦しむ所は軍事と造作となり。此{こ}
の両事を停{とど}めば百姓安んぜむと。真道、異議を確執{かくしつ}し
て肯{あ}えて聴{き}かず。帝、緒嗣の議を善しとし、即ち停廃に従ふ。
(『日本後紀』延暦24年<805年>12月7日条)

問1.「造作」の内容を述べた文として正しいものを、次から1つ選びなさ
  い。
 1.造作とは、東大寺の大仏を造立していることである。
 2.造作とは、平等院の鳳凰堂を造立していることである。
 3.造作とは、紫香楽宮を造営していることである。
 4.造作とは、平安京を造営していることである。

問2.史料から読み取れることがらとして誤っているものを、次から1つ選
  びなさい。
 1.藤原内麻呂は「軍事と造作」を天皇に提案し推進した。
 2.藤原緒嗣は「軍事と造作」が民衆を苦しめているとして反対した。
 3.菅野真道は「軍事と造作」を停止することに反対した。
 4.天皇は「軍事と造作」の停止について藤原緒嗣の進言に従った。



解答−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



 まず、805年に徳政相論(論争)を行わせた天皇が、晩年の桓武天皇で
あることを確認してください。
 藤原緒嗣{おつぐ}は、称徳天皇の死後、光仁天皇(天智の孫、桓武の父)
を擁立した藤原百川{ももかわ}(式家)の子で、徳政相論のとき31歳。
 すぐれた才能・品格の持ち主でしたが、薬子の変によって式家が衰退して
いくなか、実権を北家の冬嗣・良房らに掌握されていく後半生を過ごすこと
になります。
 菅野真道{すがののまみち}は渡来系氏族の出身で、平安京遷都や『続日
本紀{しょくにほんぎ}』の編集に携わった人物で、徳政相論のとき64歳
でした。
 藤原内麻呂は北家の祖・房前{ふささき}の孫で、次男が北家発展の基礎
を固める冬嗣です。つまり、藤原氏で初めて摂政となる良房の祖父にあたり
ます。徳政相論のとき49歳。翌年に右大臣となり今でいう首相の地位につ
きますが812年に56歳で死去します。

問1.4
問2.1(提案は緒嗣、裁定は桓武天皇です。)

  
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♪創刊−2000年3月/発行−2008年07月26日
 発行者/松井秀行

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