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2009/11/09

♪高校日本史講座☆1366 人物編7後白河法皇

<高校日本史講座>

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♪高校日本史講座☆1366(2009-11-09)

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   09年テーマ史:日本史受験重要事項(人物編7<12世紀>後白河法皇)

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 人物編7「後白河法皇」~比類なき暗主~


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1.誕生から即位まで


 後白河(1127~1192)は、鳥羽上皇(法皇)の第4皇子として生まれ、
雅仁{まさひと}と名づけられます。母は待賢門院{たいけんもんいん}と称さ
れた藤原璋子{しょうし・たまこ}です。
 当時は曾祖父の白河法皇による院政の最末期(白河は1129年死去)で、後
白河が生まれた時、8歳年上の同母兄の崇徳{すとく}天皇がすでに4年前に4
歳で即位していました。
 崇徳の実父は白河(鳥羽の祖父)と噂され、白河の鳥羽に対する冷遇(崇徳へ
の偏愛)、鳥羽の崇徳に対する冷遇は、のちの保元の乱(1156年)の伏線に
なったとされます。

 崇徳上皇が詠んだ「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」
は、三島由紀夫の原作映画『春の雪』(2005年)でも取りあげられていまし
た。(主人公の松枝清顕=妻夫木聡と綾倉聡子=竹内結子が、幾多の苦難を乗り
越えて結ばれる象徴として。)

 後三条-白河-堀河-鳥羽-崇徳・後白河


 白河の死後、「治天{ちてん}の君」(天皇家の家長)として院政の主宰者と
なった鳥羽は、1142年に崇徳を退位させ、寵愛する美福門院{びふくもんい
ん}との間に生まれた近衛{このえ}天皇(2歳)を即位させます。
 しかし、1155年、近衛天皇は16歳で死去してしまいます。

 その後継候補には、母を美福門院とする八条院{はちじょういん}(八条院領
の領主として日本史学習でも重要人物)、崇徳の子・重仁{しげひと}、雅仁
(後白河)の子・守仁{もりひと}らの名があがりますが、けっきょく、守仁
(のちの二条天皇)までの中継ぎのかたちで雅仁自身が即位することになりまし
た。
 後白河(雅仁)28歳のときです。

 雅仁には「お遊びなどありとて、即位の器量にはあらず(『愚管抄』)」とい
う評判があり、崇徳も「文にもあらず、武にもあらぬ(『保元物語』)」と述べ、
側近の藤原信西{しんぜい。通憲}も後年に「和漢の間に比類{ひるい}なきの
暗主{あんしゅ}なり(九条兼実『玉葉』)」と評するほどの人物でした。
 簡単にいうと、誰もが雅仁を天皇にふさわしい人物とは思っていませんでした。
遊んでばかりいて支配者としての能力の無い人物と思われていたのです。

 雅仁の幼少期から青年期は、兄の崇徳天皇や異母弟(近衛天皇)が皇位につい
た時期にあたり、崇徳にも皇子(重仁)が生まれていたので、自分自身に皇位が
まわってくることは思いもよらないことでした。
 このため、青年期の雅仁は今様{いまよう}に熱中します。今様は当時の流行
歌謡をさし、その語には今風・現代風という意味がありました。

 雅仁が編さんした『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)口伝集{くでんしゅ
う}』には、「(後白河=雅仁は)十余歳のときより、今にいたるまで、今様を
好みて怠{おこた}ることなし」、「春夏秋冬、四季につけて折を嫌うことなく、
ひねもす謡{うた}い暮らし、夜もすがら唄{うた}明かさぬ」日はなかったと
記されています。

 雅仁は若い頃から傀儡子{くぐつ、人形遣いの被差別民}や遊女などを宮中に
招いて今様を教えてもらい、毎晩のようにうたってばかりいたのです。
 賤視{せんし}された人びとの文化に目を向け、それを公家文化に取り入れた
雅仁すなわち後白河は、それまでの天皇とはことなる「新たな帝王」だともいえ
ます。
 のちに平清盛のまねきに応じて福原の山荘を訪れたときに宋人と対面したのも、
人間をわけへだてなく見つめる精神が後白河にあったからかもしれません。(貴
族の九条兼実は、後白河が外国人と対面したことについて「我が朝延喜以来未曽
有{みぞうう}の事なり。天魔{てんま}の所為{しょい}」と批判)

※九条兼実{くじょうかねざね}-藤原忠通の子。のち源頼朝と親交を深め、摂
 政、関白を歴任。同母弟には『愚管抄』作者で天台座主の慈円がいます。兼実
 自身の日記『玉葉{ぎょくよう}』も鎌倉幕府草創期の様子を伝える重要な史
 料です。



2.武家政権との対抗


 後白河即位の翌年(1156年)、鳥羽法皇の死去直後に保元の乱が勃発しま
す。この原因は、「治天の君」の地位をめぐる崇徳・後白河との争い、藤原氏
(摂関家)の「氏長者{うじのちょうじゃ}」(摂関家の家長)の地位をめぐる
忠通{ただみち}とその父忠実{ただざね}・弟頼長{よりなが}との争いによ
るものですが、ともに2大武士団の源平両氏によって解決をはかったため、彼ら
を中央政界に進出させることになりました。

 保元の乱は、戦う意思のなかった崇徳側にあえて後白河が奇襲攻撃をかけて勝
利をおさめます。

●後白河側(天皇方)-藤原忠通・源義朝・平清盛
●崇徳側(上皇方) -崇徳(配流)・藤原頼長(戦傷死)・源為義(処刑)
 平忠正(処刑)

 乱の直後、後白河はいわゆる「保元新制」を発して、荘園整理等の指針を示し
ます。
 冒頭の「九州(日本全国)の地は一人{いちにん}の有{たもつ}なり。王命
のほか、何ぞ私威を施さんや」は、荘園・公領制を肯定しつつも私的な支配を認
めず、これらの最終的な所有者が王(天皇、上皇)であることを宣言したもので
す。荘園・公領を貴族や寺院・神社に王が委ねた政務や国家儀礼の遂行に必要な
経費をまかなう基盤としたことは、これらが私有地であることを否定し、公地に
位置づけるものでした。

 後白河は、1158年に子の二条天皇に位を譲りますが、院の近臣間の対立、
平清盛と源義朝との対立などにより、平治の乱(1159年)が勃発します。

●藤原信頼{のぶより}・源義朝→後白河の近臣藤原信西を襲撃(自殺)
●平清盛→信頼を処刑、義朝に勝利(義朝は尾張で家臣により謀殺)

 この乱で最終的な勝利者となった平清盛は、後白河とも友好な関係を保ち、
1167年に武人貴族として初めて太政大臣に就任します。
 皇位は、二条の死後、その子・六条(後白河の孫)、高倉(父は後白河、母は
清盛の妻の妹)とうつり、高倉と清盛の娘・徳子との間には後の安徳天皇が生ま
れています。後白河は1169年に出家(僧名は行真)、法皇として政界を主導
します。

 しかし朝廷・院を主導した後白河と、全国の武士団を背景に政界を主導者した
清盛との協力体制は長続きせず、1177年、いわゆる「鹿ケ谷{ししがたに}
の陰謀」で有力な近臣を排除された後白河は、その2年後に清盛のクーデタによ
って幽閉{ゆうへい}されます。

※「鹿ケ谷の陰謀」については、院の近臣側が平氏の武力を用いて延暦寺をおさ
 えようとしていた時に起きたことから、院の近臣側に平氏倒の動機はなく、延
 暦寺側との紛争を避けようとした清盛側が、この機会に院の近臣をおさえるた
 めに、単なる私的会合を平氏打倒の陰謀にでっちあげたとする説が有力です。

 1180年、後白河の子・以仁王{もちひとおう}が諸国の源氏に平氏打倒を
呼びかける令旨{りょうじ}を発します。これも後白河の意思によるものとする
説があります。
 以仁王の令旨は治承{じしょう}・寿永{じゅえい}の内乱の幕開けとなり、
1183年に北陸から京に侵攻した源義仲は平氏を西国に追いやります。
 清盛の死後(1181年)、政界の主宰者に復帰した後白河(孫の後鳥羽を即
位させた)は、しかし義仲と対立し、関東の源頼朝に義仲追討を命じることにな
りました。
 兄頼朝の命を受けて義仲を討った義経は、平氏を1185年に長門{ながと}
の壇ノ浦{だんのうら}で滅ぼします。

 京に凱旋した義経。しかしその栄光は一瞬で、早くも頼朝と対立し、後白河に
迫って頼朝追討の宣旨を出させたものの軍勢が集まらず義経は都落ちします。  
 こうした混乱の末、頼朝は諸国にいわゆる「守護・地頭設置」を、「日本第一
の大天狗{だいてんぐ}」と批判した後白河に承認させ、鎌倉幕府の土台を固め
ます。

 1189年、頼朝は義経を討った奥州藤原氏を討つために征夷大将軍の地位を
のぞみますが、後白河はそれを認めませんでした。



3.後白河の晩年


 1190年。前年に奥州藤原氏を討った頼朝は30年ぶりに幼少期を過ごした
京にのぼり、後白河と対面します。
 幽閉期はあるものの、約30年間、京の政界の中心にあって、二条・六条・高
倉・安徳・後鳥羽の5代の天皇を父・祖父として後見する院政の主宰者として、
保元・平治の乱、平氏政権、義仲・義経の興亡を目の当たりにした後白河はこの
時63歳。
 北東の外ヶ浜{そとがはま、津軽半島東部}から南西の喜界島{きかいじま、
鬼界島、あるいは硫黄島)までを支配下に置いた武家の棟梁、頼朝は43歳。

 2人の会話がどのようなものだったかはわかりませんが、権大納言{ごんだい
なごん}・右近衛大将{うこのえのたいしょう}(右大将)に任命された頼朝は
直後に辞任して鎌倉に帰還します。
 頼朝は九条兼実に「法皇、天下の政を執り給う。・・天子(後鳥羽天皇)は春
宮{とうぐう=皇太子}の如きなり。法皇御万歳{ごばんざい}の後、また主上
{しゅじょう、天皇}に帰し奉るべし。・・当今{とうぎん、後鳥羽天皇}は幼
年、御尊下(九条兼実)はまた余算猶遥{よさんなおはる}か。頼朝又運有{あ}
らば政{まつりごと}何ぞ淳素に反{かえ}らざらんや。当時は偏{ひとえ}に
法皇に任せ奉るの間、万事叶{かな}うべからず」と、後白河の死後には天下の
政治を正しくしたいという思いを述べています。

 頼朝は、親政を期待した後鳥羽天皇(頼朝上洛時は10歳)に、後に娘の大姫
{おおひめ}の嫁入り(入内{じゅだい})をはかりますが、この後鳥羽は31
年後(1221年、承久の乱)、幕府打倒を全国に命じることになります。
 後鳥羽の配流後に「上皇」格となった後高倉院(高倉天皇の子、後鳥羽の同母
兄、壇ノ浦の戦い時に安徳天皇とともに平氏側の船に乗船)を、壇ノ浦の戦い後
に養育したのは祖父の後白河でした。
 承久の乱という朝廷・院の失態にあっても幕府が後高倉院に院政をとらせたこ
とは、「上皇・天皇」体制を中世における朝廷の基本形態として選択・確認する
ことになりました。

 後白河-高倉-安徳(母は平徳子)・後高倉院(母は坊門氏)・後鳥羽(同左)

 後白河が1192年に死去した直後、頼朝は征夷大将軍に任命されます。

※ 頼朝にとって「征夷大将軍」は固執すべき官職ではなく、「右大将」になる
 ことで武家の棟梁{とうりょう}たるにふさわしい官職として満足したとする
 見解もあります。
※ 頼朝を鎌倉幕府側の正史である『吾妻鏡{あづまかがみ}』が「右大将」と
 記しているのは、この官職が征夷大将軍よりも高い官職であるためです。



4.後白河と院政期・鎌倉期の文化


 後白河は『梁塵秘抄』を編さんしたことのほか、多くの文化財の創造にかかわ
っています。
 清盛に造営させた京の蓮華王院{れんげおういん}の本堂は三十三間堂として
知られます。
 また、承安版『後三年絵』を描かせて武士の残虐なさまを後世に伝えさせてい
ます。(承安版は現存しませんが、南北朝期成立の『後三年合戦絵巻』は承安版
をもとにしているとされます。)

 鎌倉文化を象徴する東大寺の再建も後白河が主導し(重源{ちょうげん}を勧
進{かんじん}の責任者に任命)、平氏滅亡の5ヶ月後の1185年8月に大仏
開眼を断行します。このとき後白河は奈良時代の開眼時に用いられた筆と墨を正
倉院から取り出させ、前月の大地震の余震が収まっていなかったにもかかわらず
自ら足場にのぼって開眼を行っています。

『平家物語』の最後を飾る「大原御幸{おおはらごこう}」は、平氏滅亡の翌年、
後白河が建礼門院{けんれいもんいん、平徳子}の隠棲する大原を訪ねて語り合
う姿を描いたものです。

「人間のあだなるならひは、今さらおどろくべきにはあらねども、御ありさまを
見奉るに、あまりにせんかたなふこそ候へ」(人間がはかないのは世の常ですが、
あなた(徳子)の様子を見ていると、とてもやりきれません)と述べる後白河に
徳子は自身がたどった人生を六道(天上、人間、餓鬼、修羅、地獄、畜生)にな
ぞらえて語ります。
 これに後白河は涙を流して「玄奘三蔵{げんじょうさんぞう}は悟りの前に六
道を見、わが朝の日蔵上人は蔵王権現の御力にて六道を見たりとこそうけ給はれ。
これ程目の当たりにご覧ぜられる御事、誠にありがたふ(珍しいこと)こそ候へ」
と述べて一同涙にむせび、日が暮れるなか後白河は帰途につきます。
 
 
 
<整理ノート:11世紀後半~12世紀の流れ>

・1068年:( 1 )天皇の親政が始まる。
・1086年:( 2 )天皇が子の( 3 )天皇に位を譲る。
 →上皇が天皇を後見する政治体制は「院政」としてしだいに国政を主導するよ
  うになった。
 →院政の政庁を院庁{いんのちょう}、発行文書は院宣{いんぜん}・院庁下
  文{いんのちょうくだしぶみ}という。 
 →院政期に建立された法勝寺などは( 4 )とよばれた。
 →南都北嶺とよばれた( 5 )や延暦寺の僧兵らはしばしば強訴を朝廷や院
  に行った。こうしたなかで源平武士団らが( 6 )の武士として院を警固
  するため京内に拠点を置くことになった。
 →院が政治の主導権をとるようになったため藤原摂関家の権力は低下したが、
  家長=( 7 )の地位や荘園群=( 8 )はしばしば相続争いの原因に
  もなった。

・1156年:( 9 )が起こる。
・1159年:( 10 )が起こる。
・1167年:平清盛が武士としては初めて( 11 )に就任した。
・1177年:( 12 )の陰謀。
・1180年:( 13 )が令旨を発して平氏打倒を諸国源氏に呼びかけた。
・1180年:平氏による南都焼討ち。
       →朝廷、僧( 14 )に東大寺再建の勧進を命じる。
・1183年:源義仲が入京。平氏は西国へ。
・1183年:後白河、源頼朝に( 15 )の宣旨を発して東国支配を承認。
・1184年:源義経、源義仲を討つ。
・1185年:平氏滅亡。
・1185年:義経が都落ち。後白河、頼朝に「( 16 )」設置を承認。
・1189年:奥州合戦。奥州藤原氏滅亡。
・1190年:頼朝上洛。権大納言・( 17 )に就任。
・1192年:後白河死去。頼朝、征夷大将軍に就任。
・1199年:頼朝死去。



 1.後三条、2.白河、3.堀河、4.六勝寺、5.興福寺、6.北面
 7.氏長者{うじのちょうじゃ}、8.殿下渡領{でんかのわたりりょう}
 9.保元の乱、10.平治の乱、11.太政大臣、12.鹿ケ谷
 13.以仁王、14.重源、15.寿永二年十月、16.守護・地頭
 17.右近衛大将
 
 

今シリーズの内容---------------------------

 6世紀-大王継体と磐井、7世紀-持統天皇(アジアと女性の王)
 8世紀-藤原仲麻呂(錯綜の人生と奈良朝)、9世紀-菅原道真
 10世紀-源信、11世紀-源頼義、12世紀-後白河法皇
 13世紀-北条時頼、14世紀-足利尊氏・直義(頼朝・泰時の後継者)
 15世紀-山名宗全、16世紀-織田信長、17世紀-徳川光圀
 18世紀-田沼意次、19世紀-島津斉彬・久光

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♪高校日本史講座 
創刊-2000年3月/発行-2009年11月09日
発行者/松井秀行

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発行:まぐまぐ、めろんぱん、カプライト
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