2009/10/01
空気を読まない
国会で自由討議の復活を! さきの総選挙の結果、衆議院の構成は「革命的」と言えるほど 変化した。その結果、麻生太郎内閣が崩壊、鳩山由紀夫内閣が成 立するという「大政変」が実現した。政策決定が官僚主導から政 治主導となるなど、革命的な変化が実現するなら、とりあえず結 構なことだといえよう。 しかし政治の変化は、内閣の変化だけで良いのだろうか? 憲 法で「国権の最高機関」と位置づけられている国会の変化がなけ れば、政治がトータルに変わると言えないのではないか、という 気がする。国会が変わるために、現行憲法施行以後行われていた 本会議の「自由討議」の復活が検討されるべきではないかと考え る。 自由討議とは、1947(昭和22)年5月3日、現行憲法と 同時に施行された国会法第78条に規定された、国会論議の新手 法だった。その規定は「各議院は、国政に携わる議員に自由討議 の機会を与えるため、少なくとも2週間に1回その会議を開くこ とを要する」というものだった。 その年4月25日投票の衆院総選挙で初当選した28歳の青年 代議士、田中角栄氏(故人)はこの自由討議を積極的に活用、何 回か発言したという。だが多くの議員が積極的に活用したわけで はなく、その後「3週間に1回」に改められ、55(昭和30) 年の国会法改正によって、消え去ってしまった。 55年体制が成立した年に自由討議が消え去ったというのは象 徴的だと思われる。国会で審議される法案の大半は、政府提出で あり、つまり官僚製である。国会は、その官僚製法案を与党の多 数によって成立させる機関となってしまった。つまり国会は「国 権の最高機関」という憲法上の位置づけを放棄し、立法権を官僚 に委任してしまったことになる。 鳩山政権は、各省とも大臣・副大臣・政務官が政策決定をリー ドする政治(家)主導への転換を宣言している。それは歓迎すべ きことであるが、そこで変わるのは政府提出の法案、予算案の「 製造工程」にすぎない。そうした工程を経て提出された法案、予 算案を与党の多数によって成立させることだけが国会の役割だと いうことになると、国会はこれまでどおり、政府主導の政治を保 証するものとなってしまう。 民主党だけで考えても、政府に入らない国会議員は極めて多数 にのぼる。そういう人たちが、自由討議を活用して、問題提起的 な発言をすることによって、国会は「国権の最高機関」にふさわ しい活力を取りもどすきっかけをつかめるように思うがどうだろ うか。 今回の総選挙での自民党惨敗、民主党の圧勝をもたらしたもの は、1990年代冒頭のバブル経済崩壊だと思われる。バブル崩 壊は「第2の敗戦」だとされたが、日本の政治は出直し的な改革 を怠ったまま、小手先の対応に終始してきた。いまようやく第2 の敗戦をもたらした官僚支配が終えんしようとしている。 こう位置づけるなら、「第1の敗戦」=第2次世界大戦敗戦の 後に制度化された自由討議を、第2の敗戦後の日本政治のあり方 を模索するために活用することは当然のこととなる。 いま政治家のテレビ出演もどんどん増えている。「コメントは 30秒。結論からさきに」というのが、テレビで好感を持たれる 秘けつらしい。いま政治家たちは、テレビ向け発言に慣れ過ぎて しまい、説得力のある論理的な発言をする能力を失ってしまって いないだろうか? 政治そのものが、テレビのバラエティ番組になり切ってしまう ことを防止する意味でも、自由討議の復活は必要だと思われる。 × × × この文章は9月30日付「朝日新聞」朝刊オピニオン面に「私 の視点」として掲載されたものです。じっさいに掲載されたもの ではなく、私が書いた原文です(現時点に対応できるものにする ため、多少手を入れましたが)。 「KY(空気が読めない)」というイヤな言葉が流行っている。 なぜ空気を読まなければならないのか? 理由はない。 みんなが同調してつくる「空気」などほとんど間違っている。 意識的に空気を読まず、空気に異議申し立てをする必要がある。


