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陶芸に対する理解を深めていきたいと思い、現在、日本各地・各都道府県の陶芸の歴史と現状を連載しています。

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2008/10/06

tougei VOL:110

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   陶芸なんでもかんでも
                              稻葉 夢庵著             
             VOL:110

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 日本各地のやきものの歴史と現状、第35章 大阪府編―その4
  
 浅井周斎‥名前は矩賢で、鳳剛園と号し、大坂難波の豪商でしたが、俗
世間を嫌って、後半生を山城国八幡(京都府綴喜郡八幡町)の鳩ヶ峯の南
山に閑居しました。浅井竹五郎‥1890(明治23)年に大阪市に生まれまし
た。中学を卒業した後、家業を継いで名古屋市東区芳野町に浅井産業合名
会社を設立、陶磁器の輸出を業とし、中国や東南アジア各地に支店を設け、
全世界に陶磁器を輸出しました。1940(昭和15)年には飛騨の民家を愛知
県名古屋市守山区に移築して玄々荘と名付け、趣味の人として高松定一、
川喜多半泥子、小林一三さんたちとお付き合いをし、美濃の若い陶芸家を
後援しました。加藤土師萌・加藤唐九郎・荒川豊蔵さんなどが、名をなし
た人として知られています。

 飯室忠誼‥和泉国(大阪府)堺の陶工で、籠細工風の縁取りをした大形
の浅皿などを造る時、作者・彩画者・制作年月をはっきりと銘書きしたこ
とで知られています。五十嵐信平‥摂津国(大阪府)古曽部焼の窯元です。
初代信平は古曽部焼の伝説を懐かしく思って1791(寛政3)年に窯を築き
ました。二代新平・三代信平の頃から三島写し・絵高麗写し・辰砂のよう
なものが盛んに焼かれました。明治の末年(1912)の五代信平の時に廃窯
されました。くらわんか茶碗や海老絵小皿も名物で、代々「古曽部」印を
使いました。

 石割松太郎‥祥瑞(しょんずい)の研究家です。大阪府堺市柳町に生ま
れ、大坂毎日新聞を1929(昭和4)年に退社して後、東京に移住して江戸
文学の研究を続ける傍ら、それまで伝えられていた日本の磁祖・祥瑞が室
町時代の人ではなく、江戸時代初期の人であることを考証したり、また磁
祖・李参平説も否定、日本の磁器は中国伝統であることを明らかにいたこ
とで有名です。

 今井宗久‥和泉国(大阪府)堺の茶人で政商と言われた人です。余りに
も有名なのでざっと説明しますと、泉州堺の納屋衆の一人で、室町後期の
茶人・紹鴎の女婿です。1520(永正17)年生まれで、宗及・利休とともに
天下三宗匠と呼ばれました。(1520〜1593)

 上田吉右衛門‥和泉国(大阪府)湊焼の陶工で、延宝年間(1673〜81)に
雑多な土器や焼塩を製造して、この地の産物にしたと言われています。柴
田久山‥明治初年(1868)に大阪付近に窯を起こして、京都から陶工を招
いて茶器を造らせました。専門家によると、その作品は相当の技量を示し
ていたようです。

 北向(きたむき)道陳‥和泉国(大阪府)堺の人で本姓は荒木です。北
向きの家に住んでいたことで、姓を北向と換えたと言われています。1504
(永正元)年生まれの室町時代末期の茶匠です。空海の弟子で、能阿弥の
孫弟子に当たります。武野紹鴎との交友が深く、門弟の千宗易(利休)を
紹鴎に推薦して、その弟子にさせた話が有名です。

 鴻池道億‥1655(明暦元)年生まれの大阪の富商で茶人です。家は山中
鹿之助の子・幸元から出て代々酒造を業とし、後に両替商となり巨万の財
を積み上げました。姓は田中、通称は弥三兵衛で、光漸・凡斎・松原庵と
号しました。

 小松屋太介‥摂津国嶋上郡富田村(大阪府高槻市富田町)の人で、太年
と号する道具商。大阪の豪家に珍蔵されている数々の器物を見て、自分で
も詩文を認(したた)めて五十嵐信平の古曽部窯で焼きました。その渋釉
で絵付けした陶器は雅致があって、陶工の画とは違った趣(おもむき)が
あり、珍重しれました。1877(明治10)年に没しています。

 小森忍‥1889(明治22)年に大阪市で生まれ、大阪高等工業学校窯業科
を卒業。以来、陶磁器工芸技術の基礎的研究をし、1917(大正6)年満鉄で
中国古代陶磁器の技術的研究の後、倣古試作品の制作に没頭、大連市に1921
(大正10)年に小森陶磁器研究所を設立「陶雅堂窯」と称し、1928(昭和3)
年には研究所を瀬戸市に移し、窯の名を「山茶窯」としわが国古来の陶芸
技術の研究と東洋趣味建築陶材の研究と製作を行いました。この後、1961
(昭和36)年には北海道江別市に「北斗窯」を開窯するなど、色々といろ
いろと書かねばならぬことが沢山あるのですが、ここまでに至る間にも半
分以上省略していますので書き切れません。北斗窯を開窯した翌年の1962
(昭和37)年に、北海道江別市で没しました。註:倣古−ほうこ・古式に
似せる、あるいは古人の造ったものに倣(なら)うことです。

 付録に移ります。

 今回から茶器の中でも「大名物」と呼ばれる名品について書いてみよう
と思います。大名物を広辞苑で調べますと「名物中の最古最貴の茶器。利
休以前、殊に東山時代のもの」と出ています。もう少し詳しく書きますと、
足利義政が東山の別荘に名画、妙墨、珍器、宝壷の類を集めまして、その
当時の数寄者と呼ばれた能阿弥(中尾真能)、相阿弥(能阿弥の孫・中尾
真相)、引拙(姓は鳥居)などに選ばせたものを、このように呼びます。
では、五十音順で。

 青木肩衝…漢作〔中国渡来の茶入の中でも最も古いものを呼びます〕肩
衝茶入で青木民部(刑部とも)法印浄恵(憲とも)が持っていましたので、
こう呼ばれました。口造りのゆがみが妙味とされ、総体の青釉にやや青み
(赤みとも)を帯びた飛び模様の現れている景色の面白さなど、漢作とし
ては異色のあるものです。青木民部から明智光秀、徳川家康と伝わり、一
度、森美作守忠政が拝領しましたが、再び徳川幕府に納まり、1657(明暦3)
の江戸の大火で難に遭いましたが、大きな損傷もなく、漆で繕われて使用
されました。後藤庄三郎が拝領、さらに姫路の酒井家に伝わりました。

 茜屋(あかねや)柿…漢作茶入で、堺の人・茜屋宗佐が所持していた柿形
茶入でしたのでこう呼ばれました。総体は柿色もしくは紫色で、その上に
黒釉で景色がむらむらと現れていて、無傷で格好もよく、釉質も極めて見
事な茶入です。初め武野紹鴎が所持していましたが、のち堺の小島屋宗佐
(活とも)を経て、茜屋宗佐に、さらに千家に入り、同家から大坂の藤田
家に譲られました。

 茜屋茄子…唐物〔中国渡来の、中国風の、舶来のものと言う意味で、こ
の場合、朝鮮渡りも含まれるようです〕茄子茶入で、堺の茜屋吉松が持っ
ていたので、こう呼ばれました。全体が無傷で普通の茄子茶入よりは大変
に大振りです。一見して、円満豊麗の感があると評されています。釉薬は
栗色で光沢があり、胴に一本の線(筋)が入っています。茜屋吉松から徳
川家康の手に渡り、尾張家の祖・義直がこれを拝領し、以来、同家に伝来
しています。

註:何処かで「椀久物語」に触れましたが、これら堺の豪商と、それを手
に入れようと画策するお偉い方々の、手練手管がどのようなものであった
か、想像しただけで、わくわくいたしますが、江戸時代、相手が徳川家康
とあっては、後世に於いても「椀久物語」のように読み本にする訳にもい
かず、現代では図り知る余地もありません。

 朱衣(あけのころも)肩衝…漢作肩衝茶入で、総体が飴色の中に赤味を
帯びた黄釉の幕状のなだれがあり、それがあたかも僧侶の纏う朱衣の裾に
似た風情があり、銘もこの景色からつけられたのだろう、と言われていま
す。伝相阿弥著『東山殿餝之記』には「あけの衣いやしくそざう也、あけ
の衣は五位のしやう也、五位のくらいほどのつぼなり」と書かれています。
漢作肩衝としてはややこぶりで、黄釉の景色がおもしろく、朱の衣という
銘とともに、最も興味の多い茶入と評されています。武野紹鴎が持ってい
ましたが、徳川家康の手にわたり、一時、紀州侯に移りましたが、同家か
ら再び幕府に献上され、1850(嘉永3)年に琉球入貢(貢ぎ物を持って来る
こと)の功によって島津侯に下賜されました。1928(昭和3)年に同家の売
り立て(現在の入札)においては二万七千三百円で落札されました。

註:1928年当時の二万七千三百円とは、現在の金額に較べたら、どれほど
に当たるのか良く判りませんが、1928年当時の物の値段をご参考までに二、
三調べてみましたので、比較して考えてみた下さい。直、この当時と現在
とは骨董品に対する評価が大分違います。現在のほうが極めて高いので、
その点も含めて計算してみて下さい。現在、高値が続いておりますガソリ
ンで見てみますと、大正時代よりも昭和時代に入るにしたがって安くなり、
1921(大正10)年に一リットル当たり三十九銭もしていたものが、1928年
には十四銭、31〜34年にかけてが最も安く十銭です。以降敗戦まで三十一
円を保持しています。
また都市銀行の大学卒の初任給で見ますと、28年には七十円です。公務員
の初任給では諸手当を含まない月俸が、七十五円。全然方角違いの煙草で
見ますと、現在でも多分売られている「ゴールデン・バット」が七銭でし
たから、この二万七千三百円どのように計算してみたら、今の金額が出る
のでしょうか。〔此処に掲載した金額は1988年に朝日新聞社から出版され
た、週刊朝日編『値段史年表』から転載させて頂きました〕

 浅茅肩衝…古瀬戸肩衝茶入れで、銘は小堀遠州の命名で、『新後撰集』の
中納言俊定の歌「色かはる野辺の浅茅におく露を末葉にかけて秋風そ吹く」
の意をとって、その景色を蕭々たる秋風にもの寂しく吹きなびく野路の浅
茅の姿に思いを寄せたものです。古瀬戸も茶入の中では釉色の変化が最も
めざましいもので、半面は沈着した古瀬戸釉で、もう一つの半面は織部焼
に見られるような陰陽表裏みせています。もと豊臣秀次の家来で猪子内匠
が持っていたものですが、主家が没落したのち加賀前田侯に身を寄せるこ
とになりました。その時、前田侯が庇護してくれたことに感じた内匠は、
これを前田利常に献じました。以後、同家に伝わっています。かつて小堀
宗中がこの茶入を拝見したいと思い、金沢に行き滞在すること三年、あら
ゆる手を尽くしたのですが、願いは叶えられず、密かにその絵図を得て、
その面影を偲んだだけで、帰洛したとも伝えられています。

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          発行者  稻葉 夢庵
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