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哲学/思想、文学、詩、映画、舞踏、演劇、音楽、アート、コミック、生活、医療福祉、教育、コンピュータ、フェミニズム、セクシュアリティ、出版などをテーマに、各執筆者が文化情況の<現在形>を論評します。

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2006/07/01

『カルチャー・レヴュー』63号

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 の転送であること、またそれぞれの著作権・出版権を配慮してください。
 無断部分転載は厳禁です。
■本誌へのご意見・ご感想・情報は「るな工房」までお願いします。
 電子メールは、"YIJ00302"を"@nifty.com"の前に付けて下さい。
■メールでの投稿・情報を歓迎します。

●○●---------------------------------------------------------●○●
 (創刊1998/10/01)
            『カルチャー・レヴュー』63号(文月号)
                (2006/07/01発行)
              発行所:るな工房/黒猫房/窓月書房
         [64号は、2006/08/01頃発行予定です]
●○●---------------------------------------------------------●○●
■目 次■-----------------------------------------------------------
◆連載「映画館の日々」番外編:うたかたの日々-----------------鈴木 薫
◆連載「文学のはざま2」第7回:「映画作家」青山真治による小説の跳躍と、
「似ている」ものたちの交錯-----------------------------------村田 豪
◆INFORMATION:第63回「哲学的腹ぺこ塾」
◆黒猫房主の周辺「低空飛行の日々」---------------------------黒猫房主
---------------------------------------------------------------------
★黒猫カレンダー・プロジェクト発動!
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/ca01.html
「黒猫」のみを掲載したカレンダーって、なかなか売っていませんよね!
それで、いっそみんなで作っちゃおうという参加型のプロジェクトです。
「黒猫」のみを掲載した、2007年度版カレンダー製作に向けて、全国の黒
猫好きの方々からの投稿写真を募ります。

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////// 連載「映画館の日々」番外編 //////

            うたかたの日々
                              鈴木 薫
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■某月某日 
 池袋でYKさんと待ち合せ。目的の某所へ行きつけず、駅東口にある「タカ
セ」の上階へ昇ってお茶。一階でパンを買ったことはあるが、中で飲み食いす
るのははじめて。東口をその位置から見下ろすのはむろんはじめてだ。過日、
親戚の法事で池之端の東天紅最上階から蓮池を見おろしたときも、よく知って
いる場所ながら、そうやって眺めるのははじめてだった。小雨の中、茂った蓮
の葉が波打つ。子供の頃は、西武デパートが屏風のようにそびえ立つところが
世界の果てだった。最初はトロリー・バス、それが廃止されてからはバスで
行った。たぶん、母がひとりで行ける盛り場が上野と池袋に限られていたのだ
ろう。一度、帰りのバスの停留所の場所が変わっていたことがあって、寿司屋
の小僧らしきアンチャンに母が「かみなり門へ行くバスはどこですか」と訊く
と怪訝そうな顔をされ、「浅草の雷門行きの」と母がもう一度言うと、「あ
あ、あさくさらいもん?」と教えてくれて、有り難かったからその場では笑い
をこらえていたのだが、そんなことのあったのはあのあたりだったかと見下ろ
しても、浅草方面へ行くバスは今はそこからは出ていない。パルコは前はマル
ブツと言ったのよ、とYKさんが微笑を浮かべ、それは私も覚えているが、丸物
で売っているものは西武とはまた違っていて好きだったとYKさんがいう、そこ
までは年齢的に覚えていない。少し大きくなると、母の買い物のあいだは本売
場で待っていたものだが。といっても、そのとき思い出しているのは上野松坂
屋の本売場であり、西武ではないのだ。

 映画化されたものは見ていないが、『ダヴィンチ・コード』の原作をTKさん
は翻訳で読み、「そこまでホモが嫌いか?」と思ったそうだ。どういうことな
のかと尋ねる。ヨハネによる福音書を読めば、イエスが愛していたのはヨハネ
であることは明白なのに、それを無視して異性愛関係にしてしまうところがホ
モフオビックだという。確かに、こうした改竄は歴史ものを映画だのテレビだ
のがやるときの通例だ。熱狂的な女性信者があれだけいたのに(と彼女は見て
きたようにいう)、それでも誰とも関係を持たなかったのはゲイだからよ、と
YKさん。最後の晩餐でヨハネはイエスの胸にもたれていた。プロテスタントの
信者であるYKさんでなく私がそれを知っているのは、塚本邦雄がさんざん書い
ているからだ。塚本にはイエスの伝記小説もあることを思い出し、YKさんに披
露する。彼女が言うには、しかし、それを上回る設定の映画が以前作られ、イ
タリア全土で上映禁止になったという。これは初耳だった。イエスがヨハネに
心を移してユダを捨てたので彼は師を裏切ったと、はっきり描いているとい
う。ローマ教皇庁が今回の映画をそうしないのは、本当のタブーは同性愛だか
らよ。イエスがゲイだったら、修道士に同性愛を禁止する根拠はなくなっちゃ
うもの。なるほど。イエスが女と寝て子供を作ってうんぬんなら、全くの絵空
事だから、逆に危険はないわけですね。さらに、イエスには他にきょうだいが
何人もいたのに、イエスの母をヨハネが引き取って面倒を見ているのは、そう
いう関係だと周囲も認めていたからだというのがYK説だ。そうか、ヨハネは
『東京物語』の原節子なのか(引き取ってはいないけど)。

■某月某日
 読売からもらった招待券があるので、SMさんを誘って、東京都美術館で開催
中のプラド美術館展へ。ひとりだったら人垣の中へもぐり込んで見る気になら
ずに出てきてしまったろう混雑。絵の中の大群衆に見入って、ふと見渡せばそ
れにまさる数の入館者がその室内だけでもいそうな感じ。話しながらけっこう
じっくり見られた。SMさんは東京の混雑する展覧会自体はじめてという。上野
駅舎のコカ・レストラン(前に一度だけ来たことがあったが、良い)で昼食
後、電車で日暮里へ移動。谷中の朝倉彫塑館でゆっくりするつもりだったが、
行ってみると金曜日は休館! 月金と週に二度も休みとは気づかなかった。再
訪しようとしてなかなか果たさぬ場所である。三の丸尚蔵館の若冲展も金曜日
は休みだ(これは、うっかり行ってしまったことがあって覚えた)。しかたが
ないので団子坂下へ歩く。私の方向音痴はとどまるところを知らず目的の喫茶
店へ行きつけなかったが、新しくよい場所を見つけた。駅舎をうまく利用した
コカ・レストランもそうだが、適当な(作り込まない)レトロさが好ましい。
冷房利き過ぎなのではおるものが必要だが(SMさんは用意がいいこと)。

 ゲイ男性が女言葉を使うのはミソジニ−だという意見をどう思うかとSMさん
に訊かれる。その場の雰囲気を和らげ(特に、キツイことを言うときなど
に)、攻撃されるのを避けるため、かえってそういう言葉をゲイの男が使う場
合について、そう言った女性がいたという。それをミソジニーと呼ぶのは
ちょっと違うような気がするけど、と私。オスザルが上位のオスに対し、メス
のポジションをとってマウントさせるみたいな?

 これは以前某所で話したことだけれど、と前置きして『ジェンダー・トラブ
ル』でバトラーがあげている例を出す。ゲイ男性が自分のことを「彼女は」と
表現した貼り紙についての話で(バトラーの本が手許にないので、あやふやな
記憶で言う)、「女性」が女性とは別のところで反復されるこうした使い方
を、女性性の本質化を避けるずらしとしてバトラーは肯定していたように思
う。それに対して私が取り上げたのはピーコの例である。爆笑問題の番組にゲ
ストとして招かれたピーコは、「ピーコさんてほんとに女なんだね」と爆笑問
題の二人に言わしめていたのだ。しかもその中味は、性に対して受動的な女、
セックスより、好きだという気持ちの方が大切といったものであった……。男
性が女性性を流用することは、しばしば規範の強化として抑圧的に働くのでは
ないか?(ニューハーフが女性たちに女の道を説くという見るも無惨な番組も
あった。)だからそうした効果はアンビヴァレントだ。別にピーコ自身が
「女」としてのポジションをとるのはちっともかまわない(本人の自由である
から)のだが、彼がTVでファッション・チェックをすることを許しているの
は、彼が「男」である特権を手放していないからこそだ、というようなことを
話す。ピーコの場合を離れても、男が女性性を流用することはしばしば彼を完
全なものにする★。女の場合はそうではない。歌舞伎の女形は本物の女性性を
表現できるとされるが(ということは、女性性が本質的にフィクションだとい
うことだろうか?)、宝塚の男役についてはそうは言われない。彼女たちは本
当の男を表現するにはつねに何かが足りないと見なされるのだ。

 SMさん、東京の空気の汚れに反応してすぐ苦しくなってしまうが(こっちは
びっくりだ)、谷中の墓地以外に附近には緑多いところもないので、坂を戻っ
て池之端へ抜けることにする。法事の際、谷中のお寺から車でたどった道を徒
歩で。観光客をねらって小ぎれいな店鋪に改築した家が目立つ。ソフテルとい
うのだったか、ピラミッドを積み重ねたような本郷側に立つホテルをSMさんお
かしがるが、私はむしろあれはもう見なれた。白鳥のボートはまだ見なれな
い。過日小雨ふる蓮池(花はまだ)が広がるのを見下ろした風景の中を小人に
なったように歩いてのち帰宅。

★ たとえば、レオ・ベルサーニの『フロイトとボードレール』(十年前に
買った本だが、ベルサーニのFreudian Bodyを読んだためにわかりやすくなっ
た)を読んでいて次のような感想を持った。ボードレールの人も知るミソジニ
−――「女は腹が減ると食べたがる、喉が渇くと飲みたがる、さかりがつくと
されたがる(……)女は自然である。ゆえに忌まわしい」について、ベルサー
ニはそれを女についての言説とは見なさずに、「詩人」としてのボードレール
がわが身に引き受けねばならぬ、またそれを恐れてもいる、それゆえ「女」に
投影せねばならぬ特質として扱う。これは正しいと思うし、詩人の散文を字義
通り受け取って存在論的な女についての箴言と見なし、ありがたがってきた
(「ボードレールと性を同じうし」という矜持のもとに女を他者化して)、あ
またのヘテロ男性ボードレリアンのたわごとを一掃するに十分だが、同時に私
たちは(それでは女はどこに?)と問うことにもなるのだ。

■ プロフィール■-----------------------------------------------------
(すずき・かおる)絶不調です。もともと書きたいことが内部にあるわけでは
ありませんが、空っぽ状態に。身体的には元気なのですが、あまりにもニュー
トラルだと(それを乱すものはいずれやってくるわけですが、今回間に合わ
ず)、書けない。むしろうちで梅でも漬けたい気分(やったことありません
が)。というわけで、成瀬シリーズの締めくくりも(また)先延ばしになりま
した。
●ブログ「ロワジール館別館」http://kaorusz.exblog.jp/
●「きままな読書会」http://kimamatsum.exblog.jp/
●「Tous Les Livres」http://d.hatena.ne.jp/kaoruSZ/[新設]

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////// 連載「文学のはざま2」第7回 //////

「映画作家」青山真治による小説の跳躍と、「似ている」ものたちの交錯
 ――『ユリイカ』『Helpless』から『ホテル・クロニクルズ』『サッド・ 
 ヴァケイション』まで
                              村田 豪
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 1997年公開映画『冷たい血 AN OBSESSION』において、青山真治は三度、ガ
スマスクと防護服で完全防備した警備隊をジープに乗せて登場させる。

 一度目は、作品のしょっぱなだ。主演で刑事役の石橋凌が、冬の張り込みの
寒さをいやすために屋台で熱いコーヒーを買いつけるというシーン。刑事ドラ
マではよく見うけられる日常が描かれようとしている、その時、ジープで警ら
中のガスマスク隊が近くに乗りつけるや停車し、車上からマスク姿のうちの一
人が石橋に向かって一瞥を投げ、さらに軽くうなずいてみせる。

 これは一瞬、なんらかの作戦の合図なのかと、見ているものに疑わせるが、
しかし石橋刑事はそちらに顔を向けていながら、ガスマスクの合図に呼応しな
い。窒息しそうな異様な雰囲気を漂わす警備隊を、まるで認識しないかのよう
に、その表情にはほとんど変化がない。それでも石橋がそれを目にしていない
ともいえないのだ。間もなくジープは走りだし、夜の街へ消えてゆく。

 こうしてガスマスク防護服隊は、その後描かれることになる刑事の物語に現
実的な形でかかわることはない。何か大きな事件が起こっていることが説明さ
れることもない。ただ、街を厳戒態勢におくかのような、そのまがまがしさ
が、冒頭、観客に強く印象づけられる。

 二度目は作品の後半。明け方、人気のない市街を走る主人公の遠景にあらわ
れるガスマスク隊は、そこに居合わせただけのだれか二人を、今度は唐突に射
殺して行ってしまう。遠くの出来事に気づかぬごとく、石橋演じる男はそのま
ま振り向きもしない。

 そして、紆余曲折をへた結末において、奪われた自分の銃を取り戻した主人
公石橋の前に、ジープに乗った部隊はみたび現れるのだが、その走り寄るジー
プに向けて、やや「メタ・フィクティブ」な挙動という色合いで、弾の入って
いない銃の引き金をしきりにカチカチ引く石橋にたいし、今度はガスマスクた
ちのほうが、そんな石橋の存在などないというように、見向きもしないで走り
抜けてゆく。

 ガスマスクと防護服――公開時期を考えても、ほとんどだれもが一度目の衝
撃的な登場からすぐに、「オウムサリン事件」において上九一色村の教団施設
へ強制捜査に踏み込んだときの、防毒装備した警察隊の姿を連想したであろ
う。

 いや、連想もなにも、最初の場面から数分後に、主人公の刑事が張り込んで
いるのは、ある宗教団体の幹部であることがあきらかになる。報道関係者が取
り囲む中、スーツ姿に怪しい形の十字架を首から下げた、柔和すぎる表情の丸
坊主の小男、つまりその幹部が現れる。すると、どこからともなく近寄ってき
た別の男が、衆人環境のなか、いきなりこの宗教団体幹部を殺してしまうの
だ。だからこれは、オウム真理教の幹部が殺された現実の事件から材をとって
いるのは、まぎれもないことである。

 しかしこの映画には、あからさまに現実の素材が引用されているのに、わざ
わざそういうことを指摘する気をおこさせないところがある。確かに「問題の
渦中にある宗教団体幹部がテレビカメラの前で殺される」という話は、現実に
そっくりそのままで「似ている」としかいいようがない。しかし映画がこの
シーンで強くとらえているのは、幹部といわれる小男の、悲しげにも虚ろにも
見える過剰なほどの顔の柔和さであり、まず何よりその表情の異様さに
「あっ」となるはずだ。

 このとき観客は「似ている」とは思いつつ、もうそれが何かに「似せよう」
などしているわけでもなく、参照される現実の人物を脳裏でさがしても、それ
が結局「同じ」ではありえないことに気づいている。また、この殺害がピスト
ルでおこなわれることや、柳ユーレイ演じる犯人がかもしだす人物像など、そ
のほかにも映画が描き、きわだたせることは、ことごとく現実の事件と違って
いる。つまりそれは完全に「別のもの」なのだ。

 ガスマスク防護服装備の警備隊もそうだろう。それは形象として「似てい
る」せいで明確にひとつの参照先を指示しはするが、まったく別様に描きださ
れるために――つまりその「似たもの」たちが、ジープに乗って、銃器を帯
び、街中を活動し、人の日常と接続されているという、現実にはない姿こそが
正面きって描かれるために、「現実にあった『あの出来事』を表現している」
などと言うことが、逆にできなくなっている。そして物語の主線としてではな
く、異化された「現実」を作品世界の背景としてすえるためにだけ、これら
「似たもの」が導入されているなら、なおいっそうこの『冷たい血』という作
品に、必要以上に「オウム事件への意味づけ」や「作り手の思想」など読み込
むことは、つつしむべきだろう。

 そもそもこれは、いかにも「青山真治らしい」ものの例として、のちの議論
の展開のためにまず映画作品から一つの側面を粗描してみたわけで、描かれた
素材の意味づけを問うつもりではなかった。だからどういう点で「青山らし
い」のか、これから説明していくのだが、しかしその前に、前言をひるがえす
ようだけれど、やはり青山の「オウム事件への意味づけ」を問題にしていみた
いような気もする。

 というのは、ひと月ほど前のさる5月31日に、東京地下鉄で「化学テロ対
策」と称しておこなわれた機動隊による化学防護隊の訓練姿は、青山が何年も
前に映画で描いた「ありえない現実」のなかの「ガスマスク部隊」と、あまり
にも「似てい」たからだ。そして、前回問題にした「麻原彰晃氏の控訴審打ち
切り」への弁護団による異議申し立てが、5月30日に東京高裁によってなんと
棄却されてしまったのだが、「ガスマスク訓練」はその次の日にあたってお
り、これは、権力によるあからさまな自己正当化のデモンストレーションとし
て見なすほかないものだった。

 さらに付け加えると、「国民保護法」のもと市民を「有事訓練」に組み込む
プログラムは、各地方自治体によってすでにいくつか実行され、またこれから
いくつも予定されている。街の風景のなかでの「ガスマスク部隊」の日常化
は、すでにこの2006年の日本においては、まったく現実のものになりつつある
のだ。「ガスマスク部隊」をなんの違和も感じないように見ていた映画冒頭の
石橋凌は、いまのわたしたちの姿にも思えてくる。

 ということは、ここにひとは青山の予見性を認めるべきだろうか。これは
2000年カンヌ映画祭で賞を受賞した『EUREKA ユリイカ』において、映画の中
の事件と同様のバスジャック事件が現実に起こったとき、その予言性が多少取
りざたされたのを思い出させる。いや、しかし「事件の予言をした」というと
らえ方は、この「似たのも」たちを、「結果のメタファー」(村上春樹)とし
て空想的な秩序づけに従わせることにほかならない。先取りもやり直しもきか
ないはずの現実を刻む「日付」や「歴史」を、これはなかったことのようにす
るやり口にほかならない。

 むしろ「わたしたちは、十分以前からこのような事態にいたることをすでに
知っていた」と、こう言うべきだろう。それは「似たもの」としてはっきり存
在していたのだから。青山の映画に予見性をになわせるのは、やはり筋違い
で、「現実」は「似ていること」を置き去りにして、もう別様の動きへ走り
去っているのだと、わきまえなくてはならない。それを隠蔽するように「ガス
マスク部隊」を「象徴」的なものとして活用しようとしているのは、今も昔も
権力のほうなのである。

 もし青山が映画のなかでこういう「現実」に拮抗しようとしているとして
も、この『冷たい血』の時点においてどこまでそれが成功していたのかは、な
かなか判断がむずかしい。青山がわれわれ観客にぶつけてきた「ガスマスク」
は、一種の「象徴」のようにも、そうでないようにも見えるからだ。

 さて、このことの是非はおいておいて、とりあえず話を進めよう。まず先ほ
どの「青山真治らしさ」というものが、どういうものなのか、説明しなければ
ならない。ただし、その仕事ぶりが映画監督というにとどまらず、映画音楽・
映画批評・小説までものする多才さゆえ、「芸術家/作家」としての「青山ら
しさ」は、さまざまにとらえることができるはずだ。しかし、正直、わたし
は、これらすべてのジャンルを理解し問題にするような自信も能力もない。

 また映画と小説が、ほとんど互いに置きかえのきかない、それぞれ固有の物
質的な領域と方法をもつゆえ、同じ「青山真治」の名を冠した作品といえど
も、たとえ同じ『EUREKA ユリイカ』というタイトルを持っている映画と小説
であるといえども、そこに首尾一貫した「青山真治らしさ」を読み込むのは、
物語の同一性をうのみにして、さまざまな面での違いに無頓着でいるような素
朴な作品理解をすることになるだろうか。それでは確かに「青山らしさ」など
論ずる資格はないだろう。

 「映画と小説はちがう」――もちろん。しかしこのことを前提にしつつ、そ
うでいながら「映画も小説も実は同じだ」といわんばかりの姿勢が青山にこそ
あるようで、そこに私は惹かれはじめている。そしてその姿勢が、映画のほう
に小説をまるまる飲み込ませるような身振りでいて、逆に小説が映画をあざむ
くようにして違いをきわだたせてゆくような、そんな成りゆきをあたえている
のではないか。現時点ではとにかくそう見える。今回はこのことを書いていき
たい。

 ところで具体的に「青山真治らしさ」とは何か?なのだが、それは青山自身
の発言などに頻繁にあらわれているので、そういう例をあげよう。

 たとえば、黒沢清や阿部和重らとのあくことのない議論を照明にして、近年
のアメリカ映画の変容と歴史に新たな相貌を与えようとした映画論集『ロスト
・イン・アメリカ』(2000年)で、同じ映画監督の塩田明彦が、ジェームス・
キャメロン『タイタニック』を「物語を叙事的に描けていない」あるいは「メ
ロドラマとして失敗している」として、全否定に近い評価を下そうとすると
き、黙っていられないというように、青山は「それに対してあえて言います
が、『タイタニック』に関しては、同じことを積極的な否定形でも言えるん
じゃないかと僕は思うわけですよ」と強く応じ、人が否定的評価に向かう同じ
要素において、『タイタニック』の「メロドラマ」や「スペクタクル」は十分
成立していると見なし、大いに肯定する。

 もうずいぶん前になるので、やや記憶があいまいなのだが、公開当時に見た
私の『タイタニック』の印象は、どちらかというと塩田の分析と評価にはるか
に近かったと思う。それはそれでよく理解できる妥当性のある意見ではないだ
ろうか。しかし、だからいっそう、この青山の『タイタニック』の肯定の強い
調子には、独特の何かを感じさせられる。

 またこういうこともあった。「2000年の中上健次――秋幸三部作を読み直
す」というシンポジウムで、高澤秀次、スガ秀実、星野智幸、鎌田哲哉といっ
た文芸批評家・作家らによるごく真っ当な小説解読の基調報告にたいして、青
山は自分の基調報告の方針を直前に変えて、70年代に中上健次が書いたアメリ
カ映画評を興味深く紹介し、その中上の映画分析が、そのまま『岬』『枯木
灘』『地の果て 至上の時』で描かれた「秋幸−路地」世界の構造に当てはま
るのではないかと、ぶつけてゆく。

 中上文学の理解において、従来あまり映画の問題は重視されていなかった
し、その作家の映画評が小説作品と緊密な関係をもつなど、だれも想像したこ
とがなかった。この青山の意見が、万人に認められる完全に妥当な見解かどか
はわからない。しかし、いくら精密な読解であっても、それだけに終始しそう
になるある種の停滞に、きわめて敏感に反応し、無理でも強引でも、何かを付
け足そうとするのだ。そう、青山はいつも何かを付け加えないと気がすまな
い。これは、映画でも小説でも変わらない青山の姿勢といえるだろう。

 この「青山真治らしさ」を簡単に定義することばは、青山自身が書いている
ので、今後はこれを使おう。つまり「重要なのは意味を読みとることではな
く、意味を付与することだ」(「夏芙蓉の花、実際にはハイビスカスかもしれ
ない」)と。

 さらに自分が「差異をいちいち言い立てる」のではなく、「差異を差異とし
て認めたうえで『似ている』ことに興味をいだくタイプ」(「討議『すでに老
いた彼女』をめぐって」)なのだと自己規定する青山の発言もつなげておこ
う。そうすると「青山真治らしさ」はよりいっそう明瞭になる。

 もう『冷たい血』での「ガスマスク部隊」の登場のさせ方が「青山らしさ」
の一例となることは、わかってもらえるだろうか。ジャンルとしての刑事物の
枠をもち、主題としては夫婦の愛のあり方を描くこの映画にたいして、なめら
かに接合できそうにない現実の「オウム事件」の素材を、あえて活用してみせ
ること。その際「オウム事件」を描くのに「現代社会の闇」といような解釈を
ほどこすことなく、ただ「似ている」ものとして描くこと。そして「似てい
る」のは、現実の事件にでもあり、あるいはまた別の何かにかもしれない(事
後的には2006年の「テロ対策訓練」にでもありうる)。

 しかし、それが膨大な映画の記憶の中の、過去の作品の何かに「似ている」
のだとしたら、わたしにはお手上げである。大いにありえるこの可能性の前
で、映画オンチのわたしはなすすべもない。だから本稿における映画解読は、
まったくなっていないかもしれないので、この点については、あらかじめお断
りしておく。

 さてこうしてみると「似ている」ものの発見や結合という手法は、映画とい
う領域においては、やや当たり前のようにも思えてくるし、そしておそらくそ
うだろう。映画人たる青山にたいして、ことさらそのような側面を強調する必
要はないだろうか。ただし、この「似ている」ということばの定義と用法に
は、映画ではない参照項がはっきりあり、これは青山自身が何度も言及してい
るものだ。それはスガ秀実が『革命的な、あまりに革命的な』(2003年、当該
章2001年初出)で論じた宮川淳の「イマージュ論批判」である。

 もうごく簡単にしかいわないが、要するに「似ている」ということは、「象
徴」のように一方的な意味づけの表象関係におかれるのではなく、部分的な類
似を介して、それぞれが「別様に」あることにほかならない。この表象関係の
構造は、たとえばウィトゲンシュタインが指摘した、言語における「家族的類
似性」のようなものを考えればいいだろう(まあ、柄谷行人のうけうり以上で
はないが)。

 「似ている」ものを見つけて、順次加算していく。――『ユリイカ』(2001
年)、『月の砂漠』(2002年)、『Helpless』(2003年)、『ホテル・クロニ
クルズ』(2005年)、『死の谷'95』(2005年)、『サッド・ヴァケイショ
ン』(2005年雑誌掲載)と、映画製作との平行作業を考えれば、あまりにも旺
盛な勢いで、ここしばらくの間に生み出されている青山の小説を読み解くうえ
で、このテーゼが、大前提の補助線となる。

 まずは、やはり最初の『ユリイカ』から振り返ろう。これは映画『EUREKA』
のノベライズとして、青山がはじめて小説に取り組んだ作品である。映画の評
判とともに、小説自体が三島賞を受賞もし、これはそれなりに広く読まれたか
もしれない。

 この作品でよくも悪くも一番に指摘されてきたのは、中上健次の小説文体の
パスティッシュである。確かに『ユリイカ』は、変化をつけずに延々と繰り返
される文末表現「した」「だった」という、中上特有の文体の感じを積極的に
まねており、すべてがすんでしまった後から物語を語っているかのような、あ
の『枯木灘』の印象によく似ている。

 映画では役所広司が演じていた主人公「沢井真」は、バスジャック事件の
ショックから出奔し、2年をへて戻ってくると、幼なじみがいる建設会社に勤
めはじめ、そこで世間のわずらわしさから逃れるように労働に打ち込む。その
「真」の姿をまず小説から引いてみよう。この部分は、中上の「秋幸」から
やってきたものだと、とくに感じさせるものがある。

 何も気に病むことなどない、と思いながら、土を掘り返し、石を砕き、水を
流す。鉄骨を打ち、コンクリをかき混ぜ、流し込む。裂け目だろうと固い地面
だろうと、現実に自分の立っている場所は常に疑いない。いまここという以
外、何も確かでないがゆえに、気に病む必要もまたないのだった。茂雄と均が
いた。茂雄はユンボを自在に操り、均はのらくらとさぼってばかりいた。昼飯
を一緒に食べた。そしてまた汗を流して働いた。働いている限り、よけいなこ
とを考えずにすんだ。土の匂いが好きだった。日の光を浴びるのが好きだっ
た。風に流されるのが好きだった。煙のような自分が、その時だけ肉体を得た
ような気がした。(『ユリイカ』角川文庫p95)

 映画にはこのような表現ができない。実際『EUREKA』で青山は、作業現場の
役所広司にこのような表象をあたえようと腐心することなど、はなからなかっ
た。

 しかし別の場面だが、映画では、役所が無駄口をきくことなく、一人で土の
ついたスコップやら作業道具を水で流して丹念に洗う姿を描いている。この
シーンによって映画は、「真」の内的な時間を的確にとらえており、それが上
記の中上的描写に対応しているといえるだろう。そして「真」が手を動かすた
びに、泥のついた金属部分がこすれ合ってガリガリ音のする、そのスコップの
質感を、セピアに色づいたモノクロの画面がよく伝えていた。ただしこの部分
を、今度また小説で確かめると、「道具を洗っていると」という素っ気ないぐ
らいのごく短い一節ですまされているのだ。

 以上のことは、小説『ユリイカ』が、映画『EUREKA』と「同じ」ものなので
はなく、「似ている」というにふさわしい関係にあるのがわかるだろう。そし
て小説にできて、映画では実現できなかった要素、人物たちの背景や心情など
を肉付けし、盛り込まれなかったエピソードを補足などした部分、それらが多
くなれば多くなるほど、小説は、映画とは別の存在意義をもつかもしれない。

 たとえば、バスジャック事件から生き残った子どもである「直樹」(宮崎
将)「梢」(宮崎あおい)と共に生活するうちに、「真」は、連続通り魔殺人
事件の犯人が、兄の「直樹」だったことをつきとめてしまう。少なくとも映画
ではそうとしか理解できない。ところが小説では、二人で警察におもむき自首
した場面で、「直樹」が起こしたのは、最後の一件だけであり、連続殺人の犯
人は別に捕まったことが示唆されている。映画の物語の緊密な構成を、これは
小説の側から破っていると考えていいだろう。

 しかしだからといって、『ユリイカ』が『EUREKA』から自立して見えてくる
わけではない。この小説は映画に「似てい」ながらも、その模倣性を完全に脱
しきれているとまではいえない。部分的に上記のような「ズレ」をはらみなが
らも、全体的には、映画の物語の忠実な再現がめざされている、とどうしても
見えてしまう。これは大方の評価だった。

 中上の作品に対しても同じだろう。文体や人物造形、語りや焦点化の構造な
どが「似ている」といえる。しかし中上の小説のような凄みは感じさせない。
なぜなのか。実は、青山が小説において採用した(もちろん映画でもすでに採
用していた)「似ている」ものを結びつけ付け加えるという原理は、よく考え
れば中上こそが小説において徹底的に深化させたものだったからではないの
か。

 『岬』『枯木灘』『地の果て』において、親族間には同じような事件が反復
され、姉の子は昔の姉と同じように男と駆け落ちし、主人公「秋幸」も自殺し
た兄の立場を繰り返させられる気がする。そして血のつながりを知られたくな
いのに、「蠅の王」と噂されるその実父「浜村龍造」に「秋幸」の体つきは
「似てい」た。逆に「秋幸」は「龍造」に積極的に「似よう」とし、腹違いの
妹と交わり、腹違いの弟を殺してしまう。それがまた、否定しようとしたはず
の前世代が引き起こし、もたらしたことの反復になってしまう。

 いや、ただ出来事や人物の行動が繰り返されるだけではない。小説は、昔の
出来事を「似た」ようなフレーズで何度も語り直し、「秋幸」に関わるものた
ちの記憶をあきることなく反芻する。風景は微妙に姿を変えながら何度も描か
れ、解けない問いが頻繁に「秋幸」に舞い戻ってくる。ことばそのものが、
「似ている」ことを互いに呼びかけ合っているようなのだ。こうしてみると
「似ている」ことは中上の小説では、ほとんど「内在的原理」である。

 一方で青山の小説では、映画や中上作品という外に向かって「似ている」関
係を打ち立てるが、これが小説内の原理として機能する様子はない。中上の文
体を取り入れながら、なにかそれと拮抗する力強さを認められなかった理由の
ひとつが、ここにあるだろう。

 だから、スガ秀実は2001年の時点で「これ(=小説『ユリイカ』)は、映画
『EUREKA』とは――実は――まったく似ていないし、中上健次ともすれ違って
いる小説なのだ。もちろん、その様な小説を書いたことは映画作家・青山真治
にとっての栄光である」(「一九九二年八月一二日/一三日」)と書くことが
できたのだ。青山の最初の小説は、「似ている」ことを肯定してもらえないよ
うな模倣、そんなふうにしか見なされなかったのだ。

 しかしその後、青山がノベライズという機会だけでなく、小説を書き続け発
表してきた現在、彼を映画作家だけに押しとどめて称揚してすませることが、
ほとんどできなくなっていることはあきらかだ。

 『月の砂漠』『Helpless』はまだ映画が先行している。しかしとうとう『ホ
テル・クロニクルズ』以降は、映画の内容をもとにして書かれた小説ではなく
なっている。映画において、なんらかの原作にもとづかない場合「オリジナル
脚本」という言い方があるが、それをもじれば「オリジナル小説」という概念
が導入できるかもしれない。そんな事態である。

 その様子の一端を示すため、青山の映画と小説、小説と小説の関係の、もっ
と錯綜した点をできるかぎり取りあげてみよう。

 それには、やはりなんといっても『Helpless』に触れなければならない。
1996年公開の青山の実質的デビュー作である映画『Helpless』で、主演浅野忠
信が演じているのは「健次」である。この名前はもちろん中上からだが、他の
主要な人物も中上作品から由来する。光石研演じる隻腕のヤクザ「安男」は
『岬』の「安雄」から、斉藤陽一郎演じる元いじめられっ子「秋彦」は「秋
幸」が変化したものだろう。青山の作品世界は、小説だけでなく映画の幕開け
からすでに、中上世界の浸食をうけていたことがわかる。

 ところで短編小説「Helpless」(2002年『Helpless』所収)は、映画
『Helpless』にやはり「似ている」のだが、映画から6年後の、小説に目覚め
た立場がそれを求めるのだというように、青山は、映画と小説の違いをきわだ
たせる叙述処理を盛り込んでいる。

 映画は、冒頭「September 10, 1989」の日付が挿入され、その後、たとえば
「9am」のような時刻を示す黒い画面がその都度割り込み、一日の物語を一時
間ごとに区切っていく形式で構成されている。これこそが『Helpless』という
映画の、狂気と無情を静謐にまとめ上げる鍵だっただろう。偶然の日付を特異
な一日として生きることになる「安男」と「健次」だけが、この任意性と形式
性に意味をあたえる映画的実在である。

 それにたいし小説ではこのような形式は採用されず、「九月十日」の日付
は、本文中の単なる一語として組み込まれてしまう。確かに小説でも、一時間
ごとの断章化は不可能ではないだろうが、それよりも青山が要求したのは、第
三の人物である「秋彦」の視点の強化なのである。そのため、映画では横溢し
た「安男」と「健次」の狂気と無情が、小説では「秋彦」の暴力への恐怖と抵
抗を通すことで、より対象化され、より批判的にとらえられているのだ。

 ところで「秋彦」とは、『EUREKA=ユリイカ』で生き残った兄妹「直樹」
「梢」のいとこで、「真」を含め四人でともに暮らし、バス旅行に出かけるあ
の大学生「秋彦」でもある。映画『Helpless』が強く暗示する昭和天皇死去の
年、「安男」が死に「健次」が行方しれずになったあの時から、四年(あるい
は五年)がたつにもかかわらず、根本的には成熟できないままで、人を傷つけ
る不用意なことばを口にし、「真」を怒らせバスからたたき降ろされる、あの
「秋彦」でもあるのだ。

 この完全に別の作品の間をまたぎ存在する「秋彦」が、『EUREKA=ユリイ
カ』の物語のあと、もう一度「健次」と「安男」のことを思い出すような視点
をもつため、小説のほうの「Helpless」は、『EUREKA=ユリイカ』を媒介にし
てこそ、映画『Helpless』によく「似ている」という構造が生まれるのだ。

 実際、別の短編「軒下のならず者みたいに」(2003年『Helpless』所収)で
は、「秋彦」はさらなる人生経験をへて、1998年に「Helpless」を書いたとさ
れる小説家になっている。「秋彦」はいわば作者青山の分身として、作品同士
を媒介する役目を担い、新たに見いだされた「似ている」ものを結びつけ、付
け加えていく存在となってゆく。そしてこの、新たな「似ている」ものの「付
け加え」は、ここにきて、はじめに青山がその原理にあたえていた機能を、
ずっと先へと前進させるにいたったのではないか。

 ここで『ホテル・クロニクルズ』(2005年)を見てみよう。これは、青山自
身とおぼしき「話者=私」が、旅の地での出来事を背景に、批評と物語を交錯
させてつむぐ連作小説集である。冒頭の一編「ブラックサテン」で、マイルス
・デイヴィス1972年のアルバム『オン・ザ・コーナー』を聴きながら、「私」
は、マイルスを同時期のゴダールあるいは中上と結びつけ、それぞれがまった
く別々に、その「誤認」された「主体」からの「脱中心化」、「乖離」をとげ
るさまをとらえ、「似ている」とみなす。そしてつぶやくのだ、「ワン・プラ
ス・ワン、ではなくて、ワン・アンド・ワン」と。

 前者はゴダール、後者はマイルスの作品名でもある。前者への偏愛として、
映画『Helpless』で題字の頭とお尻のアルファベットをいくつか消して、「1
p1」(ワン・プラス・ワン)と浮かびあがらせもした青山だったが、それは
ともかく、これは二人の間の優劣ではなく、自身の方法論の初期的あり方を更
新する宣言である。マイルスの同アルバムのまた別の曲名である「ひとつのこ
とを考えて別のことする」も、その「似ている」ことのより跳躍したあり方を
示す合言葉となる。

 「ワン・アンド・ワン」。これは中上シンポジウムでも問題化された『地の
果て』の「浜村龍造」のセリフ、個人を越えた「人間の歴史」の本質を表現せ
んとすることば「一たす一は一じゃし」「一から何を引いても一じゃ」に、ど
んな応接どんな抵抗があるのかという課題への青山なりの答えであろう。また
別の「秋彦もの」である中編小説「わがとうそう」(2003年『Helpless』所
収)でも、青山は分身の「秋彦」に「結婚などどうでもいい。1+1=1であ
るわけがない。一人につき一個の幻想、一人につき一個の欲望、それだけでい
い。1+1=2以外に正解はない」と語らせている。

 つまり映画においてだけ、映画にたいしてだけ、「似ている」ものを加算し
て、その映画という全体性「1」を十全にするのではなく、映画と小説の間、
あるいは自分の小説とだれか別の小説の間に、「似ている」ものをぶつけて、
その「ズレ」を生みだしていくこと。はじめからそうだったのだが、このスタ
イルをより自覚的に拡張すること。より具体的に実践すること。

 そうすると、「『似ている』ことを『内在的原理』として使いつくした中上
の頂点の作品からするなら、青山の『似ている』は強度が足りない模倣にとど
まる」という先に示した否定的評価は、やはりもう一度検討されなくてはなら
ない。つまり青山は「内在的」な「ワン・プラス・ワン」を批判的にとらえた
からこそ、あるいはそのやり方ですでに最高の成果がなされた後に小説を書く
立場だからこそ、意識的に中上的強度への傾斜を回避していたことになる。

 実際、渡部直己との対談(「面談文芸時評」『新潮』2005年12月号)で、
「秋幸」三部作でなくその後の「『異族』のように極めて平板なもの、浅田彰
さんの表現を借りれば『劇画的なもの』、これをどう小説として開いていく
か、それこそが自分が小説を書くにあたっての、唯一の問題系でした」と青山
は語っている。さらに小説に取り組む上での現在の方針を次のように語る。

 青山 なんとも言いにくいことですが、秋幸三部作を含め、中上作品はとう
とう母権批判をできなかったのではないか、というのが僕の前提的な懐疑で
す。『地の果て 至上の時』にちらっと出てくるけれど、そのあとは出てこな
くて、横滑りになる。しかし僕は、母権批判こそこの国の小説でなされるべき
ことじゃないかと、考えています。

 このことは、一番最近の小説『サッド・ヴァケイション』(2005年)でも部
分的に取り組みが始まっている。しかしながら、原稿用紙400枚にものぼる力
作でもあり、ここでその出来の良し悪しを論じるには、もはや時間切れになっ
た。ただひとつだけ補足すると、同作では『Helpless』のあと行方しれずに
なった「健次」の物語が展開されるのだが、なんとこれが、バスの旅から何年
もたって大人になった「梢」の物語と直接に交わりながら、劇的に膨張を始め
ている。と同時に、「健次」の母「千代子」という「龍造」でもあり「フサ」
(「秋幸」の母)でもあるような怪物的人物が造形され、「青山サーガ」の新
たな展開が始まっている……。

 今回は、青山の映画と小説についてはともかく、中上健次の作品世界に触れ
ていない人には、かなり読みづらいものになったかもしれない。青山が文学に
おいて、もっともその「似ている」関係を持ち込んだ対象が中上であるからに
は、言及せざるをえないのだが、青山作品を受容する上で必ずそれが必要だと
いうわけでないのも、最後に断っておきたい。青山に肩入れする割には、本稿
は、そのあり方にふさわしくなく直線的な論法であっため、結局は言い落とさ
れてしまう小説作品がでてしまった。これにもそれぞれ、ひと言ずついってお
きたい。

 『月の砂漠』(2002年)。映画では、三上博演じるITベンチャーの寵児にし
て野心家「永井恭二」が、とよた真帆演じる妻「アキラ」と娘「カアイ」に家
出されてショックを受けている。なのに素直にそれを認めず、観念的なことを
うだうだ言いつづけて、契約を結ぶ男娼「キーチ」にバカにされながら、しか
し実はどこかで家族の絆を前提にしていることが、逆に「キーチ」を振り回
す。何がしたいのかさっぱりわからない(妻にもこう言われてしまう)三上=
「永井」になんか腹が立つのだが、小説を読んでもあまり印象が変わらない。
しかし「青山サーガ」には若干縁がない、乾いた質感のユーモアがある。

 『死の谷'95』(2005年)。これは傑作だろう。すごい。途中で震えた。上
記の対談で言及されているのだが、アメリカ文学を大学で専攻していた青山と
しては、中上と「似ている」ほうの小説系列は、フォークナーが念頭にあり、
こちらの二作は、フィッツジェラルドを念頭に置いているという。そこで渡部
はまたぞろ「村上春樹とは本質的に無縁なフィッツジェラルド(ですね?)」
と悪口をいうのだが、しかし、決してそう口にしなかったが、青山はこれが村
上春樹に「似ている」といわれても、単に否定はしないだろう。「似ている」
のは、まず問題化の姿勢のあらわれであるのだから。まあ、作中の具体的な
「ワン・アンド・ワン」の対象は、夏目漱石だが。

 さて、本稿を終えるにあたって、最後にいわなければならない。なんとなく
気づかれる向きもあるかもしれないが、実は、近年の青山の映画をわたしは見
ることができていない。これはまったく決定的な節穴を、この文章に作ってい
る可能性が大である。とくに今年の公開された『エリ・エリ・レマ・サバクタ
ニ』を見逃したのは、非常に良くなかった。見に行こうとしたとき、すでに関
西での上映は終わっていた。DVDの発売も今月末で、気になることを確かめ
られなかった。

 問題なのは、「健次」に「似ている」関係にある「現存在」浅野忠信と、
「梢」に「似ている」関係にある「現存在」宮崎あおいが共演しているという
こと、しかも「青山サーガ」とは違う役柄、物語においてである。これはどう
考えても、映画から出発したはずなのに小説において膨張を続ける「健次」−
「梢」の世界にたいして、映画側から、また別様の「似ている」ものを追加し
ようしたのではないだろうか。つまり、これは映画作家としての青山真治が、
自身の小説への批判ないしは批評をもたらしたということになろう。

 さらに本稿にとって致命的なのは、宣伝用の写真などでうかがい知るとこ
ろ、浅野忠信と共演の中原昌也が「ガスマスク」をつけていることである。こ
の「似ている」ものは、いったい全体なんのためなのか? ほとんど理解を超
えている。5月6月になっても各地の映画館を回っていたので、少々遠くても
行けばよかったかのだが、後悔してももう遅い。とはいえ、さすがに関西から
群馬、山口などにまで駆けつける気はおこらなかったが。

■プロフィール■-----------------------------------------------------
(むらた・つよし)サラリーマン。「哲学的腹ぺこ塾」塾生。

●●●●INFORMATION●●●--------------------------------------------

 ★第64回「哲学的腹ぺこ塾」★
 http://homepage3.nifty.com/luna-sy/harapeko.html
 ■日  時:06年07月09日(日)午後2時より4時まで。
 ■テキスト:『聖書』
 ■会員制です。

■黒猫房主の周辺■「低空飛行の日々」---------------------------------
★寄稿者の鈴木薫さんが絶不調ということでギリギリの入稿であったが、黒猫
房主もご同様で、この数週間テンションがさがり放しの低空飛行状態である。
だからと言っても、食欲も睡眠もとくに障害はないので日常生活や仕事には支
障はない。ただ本を読んでもなかなか頭に入らないし文章を書くのが億劫なだ
けだ。ためにあれほど熱中していたブログも最低限の更新でお茶を濁している
次第。もっともブログはもともとの怠け癖が復活しただけのことだろうとは
思っているが……。
★さて話替わって、今月の「哲学的腹ぺこ塾」のテキストは「聖書」となっ
た。先月の親鸞に続いて宗教シリーズというわけであるが……やはり無信仰者
にとっては「信仰」というのがよくわからない。ところで鈴木薫さんのエッセ
イの中で「ヨハネの福音書」のことが触れられていたが、太宰治の「駈け込み
訴え」におけるユダの裏切りが愛情問題にあることは明白なのだが、ヨハネと
の三角関係だと考えればなお合点がゆく。この辺の事情は不勉強だったので、
妙に納得している。
★「福音書」には、これでもかというほどにキリストによる夥しい「奇蹟」が
描かれているが、これは非合理な奇蹟的現象がキリスト教の真髄だというので
はない。それらは「証」として、神の正統性や権威を表象する「奇蹟」なので
あるが、その「証」を信じ得ない者に対してイエスが怒りをぶちまけているの
が面白い。八木雄二さんの『中世哲学への招待』(平凡社新書)によれば、
「神の存在」を客観的に証明する神学論争こそが、近代科学的論理を生み出し
たそうである。(黒猫房主)

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『カルチャー・レヴュー』63号(通巻67号)(2006/07/01)
■編集同人:いのうえなおこ・小原まさる・加藤正太郎・田中俊英・ひるます
      文岩優子・野原燐・村田豪・山口秀也・黒猫房主
■編集協力:中原紀生 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/
■発 行 人:黒猫房主
■発 行 所:るな工房/黒猫房/窓月書房
            電子メール("YIJ00302"を"@nifty.com"の前に付けて下さい)
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