世界史講義録/No-99
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世界史講義録 〜こんな話を授業でした〜
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まえがき
一年も終わりにちかづき、今年はどんな本を読んだか振り返ってみました。
著者別に見てみると、伊坂幸太郎が10冊、次が佐藤正午の9冊が飛び抜けて
いました。今年前半に読みまくったのでした。4冊が辛淑玉。
2冊が、井筒俊彦、奥田英朗、岡田暁生、高橋源一郎、佐藤優、森見登美彦
という顔ぶれでした。あとは、著者も分野ものばらばらの乱読です。
こうしてみると、判りやすい読書傾向。しかも、あまり、歴史の本を読んで
ない感じですね。
歴史の本で、特に刺激的だったのは、『イスラーム帝国のジハード 興亡の
世界史06』小杉泰、講談社。『アジア・太平洋戦争』吉田裕、岩波新書。前者
は、現代のイスラム原理主義者によるテロをどう考えるかというところまで、
視野に入れて書かれており、勉強になりました。後者は、コンパクトにまとめ
られている上、様々なエピソードが秀逸。
他には、『オキナワと少年』伊佐千尋(講談社)と『昭和陸軍の研究(上)
(下)』保坂正康(朝日新聞社)も印象深い。前者は、著者の沖縄戦前後の体
験を小説化したもの。後者は、長い時間をかけて、多くの戦争体験者に取材し
て構成しています。教科書的記述に抽象化される以前の、実際の体験談は、有
無をいわせぬ迫力があります。歴史の教師としては、こういう書物をどれだけ
読んでいるかで、授業の迫力が違ってくるのだろうと思いました。
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99 エジプトの自立
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オスマン帝国の衰退
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16世紀半ば、スレイマン1世の時代に全盛期を迎えたオスマン帝国は、そ
の後、徐々に衰退していきます。
1683年、第二次ウィーン包囲失敗が、衰退の大きなきっかけとなりました。
第一次ウィーン包囲(1529)以後も、オーストリアとは断続的に武力衝突が起き
ていましたが、第二次ウィーン包囲失敗後は、オーストリアやロシアなどとの
戦争になり、敗北したオスマン帝国は、1699年、カルロヴィッツ条約で、ハン
ガリーなどをオーストリアに割譲しました。
その後も、ロシアとの戦争で、18世紀後半には黒海北岸の領土を失います。
国内的には、地方総督の自立化傾向、帝国内の諸民族の独立運動が起きてく
るのですが、オスマン政府は有効な対策がうてず、ずるずると衰えていきます。
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ワッハーブ王国の成立と崩壊
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オスマン帝国の衰退を象徴する最初の事件がワッハーブ王国の成立です。
18世紀半ば、アラビア半島でイブン=アブドゥル=ワッハーブという人物
が、ワッハーブ派という宗派をおこしました。彼によれば、当時のイスラムの
あり方は、ムハンマドの教えからはずれている。だから、ムハンマド時代の教
えに帰れ、というのです。確かに、当時多くのムスリムの心をとらえていたス
ーフィズム(神秘主義)や、聖者崇拝などは、コーランのどこを探しても出て
きません。イスラムがアラブ人以外の民族に広がるなかで、つけ加えられてい
ったものです。(現在でも、スーフィズムや聖者崇拝はあります)
ワッハーブが唱えたのは、コーランに書いていないことはダメ、というガチ
ガチのイスラム原理主義です。これは、当時の状況を考えると、トルコ人のオ
スマン帝国に支配されているアラブ人が、宗教をつうじて自己主張していると
とらえることができます。
やがて、このワッハーブ派を信奉したアラビア半島中央部、ネジド地方の豪
族サウード家が、オスマン帝国の支配にさからい、半島にワッハーブ王国を建
設しました。やがて、領土を拡大しはじめ、19世紀はじめには、メッカとメ
ディナの2聖都を支配するまでに発展した。
オスマン帝国にとっては、メッカ、メディナを失うというのは大失態で、辺
境アラビアの出来事と、放って置くわけにはいかなくなりました。ところが、
この時すでに、オスマン帝国は、独力でこれを討伐する力がなかった。そこで、
またあとでのべるようにエジプト総督の力をかりてようやくワッハーブ王国を
滅ぼしました(1818年)。
しかし、このあと1823年、ワッハーブ王国は復興し、89年にまた滅亡します
が、20世紀初頭、サウジアラビア王国という名前で、再度復活します。現在
のサウジアラビアです。
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ギリシアの独立
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1821年にはギリシアで独立戦争が始まりました。当時、ヨーロッパ列国はウ
ィーン体制のもとで、民族運動には冷淡だったのですが、ギリシアといえばヨ
ーロッパ文明の故郷、イギリスの有名な詩人バイロンが義勇軍として独立戦争
に参加したり、フランスの画家ドラクロワが「シオの虐殺」というオスマン軍
によるギリシア人虐殺事件を描いたりして、しだいにヨーロッパ人に注目され
ます。
また、南下政策をとるロシアが、この機会にバルカン半島に勢力を拡大しよ
うと考え、ギリシアを支援してオスマン帝国と開戦。イギリス、フランスもギ
リシア独立に介入して、1929年のアドリアノープル条約で、ギリシアは独立を
達成しました。
バルカン半島には、独立したギリシア以外にも、スラブ人、ギリシア正教徒
が多数住んでいますから、かれらもこのあとオスマン帝国からの自立を求めて
運動を活発化させるし、オーストリアやロシアがこれを援助しますから、オス
マン帝国政府は、ますます難しい状況になっていきます。
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エジプトの自立
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すでに18世紀くらいから、アフリカ北岸地域では、在地勢力が、オスマン
帝国の宗主権を認めながら、地方政権をたてていました。そのなかで、今から
エジプトの話をするわけですが、なぜ特にエジプトなのかというと、エジプト
はオスマン帝国から自立しただけでなく、ヨーロッパをモデルに国家建設をめ
ざしたからです。しかも、それが一時は、成功しそうになる。最終には、失敗
してイギリスの植民地になってしまうわけですが。だから、19世紀のエジプ
トの歴史は、アジア・アフリカ諸民族が、最も早い時期に欧化をめざし失敗し
た先駆的な例となりました。ヨーロッパがアジア・アフリカを従属化、植民地
化していくひとつの典型なのです。
また、エジプトの試みが、オスマン帝国の衰退と絡み合いながら進行してい
ったことも重要です。
エジプトの自立はナポレオンの遠征から始まります。1798年、ナポレオン率
いるフランス軍がエジプトを占領しました。これに対抗して、イギリスはエジ
プトに軍隊を派遣しましたが、エジプトはオスマン帝国の領土なので、当然、
オスマン帝国政府も各地の部隊をエジプトに送り込みました。この時、派遣さ
れたオスマン軍の将校だったのが、ムハンマド=アリーです。アルバニア系と
言われています。エジプト人でもなければ、トルコ人でもないということです。
このムハンマンド=アリーが、徐々に頭角を現して、やがて、エジプト派遣軍
を掌握します。そして、1801年と1803年にフランス軍とイギリス軍がそれぞれ
撤退した後、カイロの有力者たちの支持を取りつけて、1805年にはエジプト総
督を名のります。オスマン帝国政府は、これを追認するしかありませんでした。
この段階で、オスマン帝国の宗主権のもとに、ムハンマド=アリーのエジプト
が自立したのです。
ムハンマド=アリーは、フランス軍やイギリス軍を、その目で見て、実際に
戦っているわけですから、ヨーロッパの軍隊がどういうものか、その軍事力、
組織力の高さを知っています。そこで、エジプトの支配者となったムハンマド
=アリーは、ヨーロッパを目標としてエジプトの近代化を進めていきました。
具体的には、西洋式の陸海軍の創設、造船所、官営工場、印刷所を建設し、
近代化をになう人材養成のため教育制度改革などをおこないました。印刷所は、
イギリスやフランスの本をアラビア語に翻訳出版するために作られたもので、
アラブ地域でつくられた最初の官営印刷所だそうです。
また、マムルークたちを、式典参加を理由に集合させ、一挙に虐殺する、と
いうこともやった(1811年)。かれらは、ナポレオンの遠征以前から、エジプ
トで一定の政治的勢力を持ち続けており、中央集権化をすすめるには邪魔な存
在だったのです。
近代化政策の財源は、農業です。「エジプトはナイルの賜」ですから、農業
生産は高い。ムハンマド=アリーは、農産物輸出事業を独占し、その利益を財
源としました。
こうして、急速に軍事力を高めたエジプトが、その実力を見せたのが、1818
年のワッハーブ王国の撃破でした。メッカ、メディナを占領したワッハーブ王
国の討伐をオスマン帝国から依頼され、アラビア半島に出兵し、これを破った
のでしたね。
なぜ、ムハンマド=アリーは、オスマン帝国の要請にしたがったかというこ
とですが、エジプトは自立していますが、あくまでも自立であって、独立では
ない。エジプトは、オスマン帝国の宗主権を認めており、正式にはオスマン帝
国の一部。ムハンマド=アリーの肩書きは、オスマン皇帝から任命されたエジ
プト総督なのです。
オスマン帝国からすると、強くなったエジプトは、言うことを聞いてくれる
のであれば、非常に頼りがいのある舎弟です。このあと、ギリシア独立戦争が
はじまると、オスマン帝国は、また、エジプトに出兵を要請しました。
エジプトは、これにも応じて、ギリシアに出兵します。オスマン帝国側は、
その見返りとしてシリアの支配権を与える約束をしていました。ところが、ギ
リシア独立戦争が終わっても、オスマン帝国側が、約束を果たさない。そこで、
エジプトはシリアの領有を要求してオスマン帝国と開戦しました。これを、第
一次エジプト・トルコ戦争という(1831〜33)。
この戦争は、エジプトが勝利し、シリアを領有することになりました。
この戦争で、南下政策を実現させたいロシアは、恩を売るためにオスマン帝
国を支援しています。また、エジプトの利権をねらうフランスはエジプトを支
援しました。
この地域は、アフリカ、アジア、ヨーロッパにまたがっており戦略的に重要
な場所だから、ただでさえヨーロッパ列国の関心が高い。ここでの紛争は、ヨ
ーロッパ列国にとって、利権を得たり拡大するチャンスです。もはや、オスマ
ン帝国、エジプトという当事者だけの争いでは、収まらなくなっているのです。
また、当事者よりも、バックに控えるヨーロッパ列国の方が、経済的にも軍事
的にも圧倒的に優位なので、いつのまにか、当事者を飛び越えて、ヨーロッパ
列国が紛争を仕切って、自分たちに都合のいい秩序を作り上げていくことにな
るのです。
1838年、イギリスがオスマン帝国とトルコ=イギリス通商条約を結びました。
オスマン帝国に関税自主権のない不平等条約でした。この結果、オスマン帝国
の領土であるエジプトにもこの条約が適用され、エジプトの貿易は大打撃を受
けました。
オスマン帝国から完全に独立すれば、この条約から逃れることができます。
そこで、ムハンマド=アリーはオスマン帝国にエジプトの独立を求め、1839年、
第二次エジプト=トルコ戦争が始まりました。
ここで、登場するのがイギリスです。イギリスは、第一次エジプト=トルコ
戦争の結果に不満を持っていた。エジプトの領土が拡大し、それにともなって、
この地域でフランスの勢力が増したことが気にくわなかったのです。そこで、
第二次エジプト=トルコ戦争が始まると、早速、この戦争の調停に乗りだしま
した。フランスやロシアとの外向的な駆け引きの末、翌1840年、ロンドン会議
で、イギリスは自分のつくった調停案をエジプトに押しつけて戦争を終わらせ
ました。
その内容は、エジプトはシリアを放棄する。ひきかえにムハンマンド=アリ
ー家がエジプト総督位を世襲する、というものでした。
ムハンマド=アリーはこの内容に不満でしたが、イギリスの軍事的圧力の前
に、これを飲まざるを得ませんでした。
結局、正式に独立することはできませんでしたが、ムハンマド=アリー家に
よる総督世襲が認められたので、普通はこれ以後のエジプトを、独立国家とし
て扱っています。(書物や年表によっては、1805年をムハンマド=アリー朝の
成立としているものもあります。)
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スエズ運河
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ムハンマド=アリーの死後、エジプト総督位はその子孫が継いでゆき、ムハ
ンマド=アリーが始めた近代化政策は、その後も引き継がれていきました。
さまざまな事業の中で、エジプトの運命に大きな影響を与えたのがスエズ運
河建設です。スエズ運河建設をはじめたのは、第4代総督サイイド=パシャで
した。かれは、ムハンマド=アリーの三男で、少年時代にカイロに来ていたフ
ランス人外交官レセップスを家庭教師にしていた。レセップスにかなりなつい
ていたようです。三男だから、本来は総督位を継ぐ立場ではなかったのですが、
兄や甥が次々と死んでいったため、総督になってしまったのです。
サイイド=パシャが総督になると、フランスに帰っていたレセップスがエジ
プトにやってきて、総督との個人的な関係を利用して、スエズ運河建設を売り
込んだのです。総督は、レセップスにスエズ運河建設の許可を与えました(18
54年)。
レセップスはスエズ運河株式会社を設立し、資金を集めて1859年に着工、10
年に及ぶ難工事を経て、1869年に運河は完成しました。全長167メートル、
幅60〜100メートル、深さ8メートル。総工費は当初の予算2億フランの
倍を超える4億5千フラン、工事に駆り出されたエジプト農民の死者は12万
人に及びました。
建設費はエジプト政府も負担し、その費用はフランスからの借り入れに頼り、
完成後のスエズ運河は、エジプトとフランスの共同所有となりました。
スエズ運河の開通によって、ヨーロッパからアジアに向かう船はアフリカを
廻らなくてもインド洋に抜けることができ、費用、時間は大幅に短縮されまし
た。現在でも、活発に利用されているスエズ運河は、歴史的な大事業だったと
言っていいでしょう。
スエズ運河開通の時のエジプト総督は、サイイド=パシャをついだイスマー
イール=パシャです。イタリアの作曲家ベルディによる「アイーダ」という有
名なオペラがあります。これは、スエズ運河開通記念に建てられたカイロの大
歌劇場で上演するために、イスマーイール=パシャがベルディに作曲を依頼し
た作品です。ストーリーの原案をイスマーイール=パシャが考えたという説も
あります。エジプト総督がスエズ運河の開通を飾るのに、オペラの作成を依頼
するというのは、どれだけエジプトの支配層が、ヨーロッパ文化にかぶれてい
たかということですよね。エジプトをヨーロッパの国にしたかった、そんな気
持ちがあったのかもしれません。
エジプトは、スエズ運河の航行料収入を当てにしていたのですが、これが思
うようにのびず、また、アメリカ南北戦争のおかげで大きく伸びていた綿花の
輸出による収入が、南北戦争の終結による衆国の国際貿易復帰によってダウン
してしまいました。
急速な財政悪化に困ったエジプト政府は保有していたスエズ運河の株式を売
りに出すことにした。1875年、これを買収したのがイギリスです。
この時のイギリスの首相がディズレーリ。積極的な帝国主義政策をとり、世
界に利権を拡大していた。エジプト政府によるスエズ運河株式売却のニュース
を知ると、このチャンスを逃してはいけないと思った。そこで、ディズレーリ
は議会にはからず独断でこれを買い取りました。議会の賛成を得ていないから
政府からお金が出ない。そこで、大富豪ロスチャイルド家から40万ポンド
(約1億フラン)を借りたという。
この結果、エジプトの領土にあるにもかかわらず、スエズ運河の所有権はエ
ジプトにはないというという事になってしまいました。
スエズ運河株式を売ったにもかかわらず、エジプトは外国から借り入れた資
金の返済ができなかった。スエズ運河以外にも、近代化政策のため外国から多
額の借金をしていたのでした。
1876年、ついにエジプト政府が財政破綻すると、債権国(お金を貸している
側の国のことを言います)であるイギリスとフランスが共同でエジプト財政を
管理下に置きました。
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ウラービー=パシャの革命
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このような状況の中で、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに、
政治改革運動が起こってきました。指導者はエジプト軍の将校ウラービー=パ
シャです。
ムハンマド=アリー以来のエジプト総督達は、近代化には熱心でしたが、立
憲政治や議会政治は取り入れず、専制政治をつづけていました。しかし、近代
的な教育を受けたエジプト人の中から、立憲政治をめざす勢力があらわれてく
るのは当然でしょう。
「エジプト人のためのエジプト」という言葉の中は、英仏から財政権を取り
戻そうというだけではなく、アルバニア系のムハンマド=アリー朝の総督に対
する批判も含まれています。
ウラービー=パシャは、1882年、権力を掌握し、自分自身は陸軍大臣となっ
て、憲法制定などの改革に着手します。これを見て、イギリスはフランスには
相談せず、単独でエジプトに軍隊を派遣し、圧倒的な軍事力でエジプト軍と市
民の抵抗を鎮圧して、占領してしまいました。
これ以後、エジプトはイギリスの支配下に入り、ムハンマド=アリー朝の総
督はイギリスの傀儡となりました。イギリス軍はスエズ運河警備を名目に、運
河地帯に常駐しました。
改革運動の指導者ウラービー=パシャは、イギリスに逮捕されセイロン島へ
島流しとなりました。失敗に終わったウラービー=パシャの改革運動は、現在
は「ウラービー=パシャの革命」と言われていますが、数年前までの教科書に
は「ウラービーの反乱」と書かれていました。イギリスから見れば反乱だった
んでしょうね。誰の視点から見るかで、同じ事件でも評価や呼び方が大きく変
わる一例です。
ウラービー=パシャの改革と失敗は、同時代の日本でも大きな関心を持たれ
たようで、洋行する日本政府の高官が、セイロン島のウラービー=パシャを訪
ねることがちょくちょくあったようです。伊藤博文の娘婿が訪問しているよう
です。また、農商務省大臣秘書官が東海散士というペンネームで書いた小説
『佳人之奇遇』(1885)に、ウラービー=パシャが登場します。この小説は結構
人気があったようですから、ウラービー=パシャは明治期の日本人にはわりと
知られていたかもしれません。
エジプトの先例に学びながら、明治期の日本は国家建設をすすめたのです。
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「世界史講義録」〜こんな話を授業でした〜 99号【2007/12/3】
【著作・発行】金岡 新
【E-Mail】timeway88@orange.livedoor.com
【ホームページ】http://www.geocities.jp/timeway/index.html
Kanaoka Sin All Rights Reserved
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「世界史講義録」発行人の本。
『よくわかる高校世界史の基本と流れ』(秀和システム刊)
詳しい目次などは、出版社のホームページをご覧下さい。
http://www.shuwasystem.co.jp/cgi-bin/detail.cgi?isbn=4-7980-1215-7
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