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黙示録は聖書の一つの書です。ここには”終末”に関する預言が書かれています。「黙示録を読む」は黙示録を始めとする聖書の”終末”に関する預言書のたとえや謎に挑戦し、預言の読解,解釈をするメルマガです。

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2009/06/30

mokusiroku第3463号 

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    □□□□□「黙示録を読む」□□□第3463号  
    2009/6/30発行(毎週火曜日発行) 
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■■■「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いてそこに書かれている
こ 
とを心にとめる人々は幸いである」黙示録1:2■■■ 
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□□□今週のもくじ□□□ (火曜版) 
◆ 
NO.539律法学者とゲヘナ(2) 

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みなさん、こんにちは。エレミヤです。 
おかわりありませんか。 

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= 
NO.539律法学者とゲヘナ(2) 
  

テキスト:マタイ23: 
”18 また、こう言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。
しかし、祭壇の上の供え物をさし て誓ったら、その誓いを果たさなければ
ならない。』 
19 目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちら
がたいせつなのか。 
20 ですから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をもさし
て誓っているのです。 
21 また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして
誓っているのです。 
22 天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うので
す。 
23 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、
いのんど、クミンなどの十分の 一を納めているが、律法の中ではる
かに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているので 
す。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにし
てはいけません。 
24 目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはの
みこんでいます。 
25 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿
の外側はきよめるが、その中は強 奪と放縦でいっぱいです。 
26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、
外側もきよくなります。 
” 
===================================================================== 

本日は、「律法学者とゲヘナ(2)」という題でメッセージします。 
聖書は、明らかにイエスの時代の聖書の専門家である、律法学者、パリサイ人
たちがゲヘナの 火に投げ込まれることを述べています。 
彼らは説教の専門家であり、聖書の専門家、また神に近いものとして、尊敬さ
れていたのですが、 何とイエスは、彼らがゲヘナに投げ込まれると語りました。 

そして、それは主のいわれたことなので、実現し、何とこの時代の多くの律法
学者、パリサイ人の 中には、ゲヘナへ投げ込まれた人々のいたこ
とが想像できるのです。 

神のことばを宣べつたえ、語りつづけ、その仕事で生涯を送りながら、 
何とその報いはゲヘナの火に投げ込まれるということなのです。 
何とこの働きは恐ろしい奉仕でしょうか。 

そして、かつての日の律法学者、パリサイ人たちへの警告は明らかに今の時代
の説教者、すなわち、 牧師、奉仕者へ向けられたものなのです。
今の私達は、このことを 
決して他人ごとと思ってはいけないのです。繰り返して忠告します。 
この奉仕を間違えるとき、その報いとして、ゲヘナの火に投げ込まれることが
ありえるのです。 このことを心にとどめ、上記テキストを見ていきましょう。 
  

”18 また、こう言う。『だれでも、祭壇をさして誓ったのなら、何でもない。
しかし、祭壇の上の供え物をさし て誓ったら、その誓いを果たさなけ
ればならない。』 
19 目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちら
がたいせつなのか。” 
  

ここでの問題は、律法学者、パリサイ人の勘違い、とらえ間違いです。彼らは、
 
祭壇より、供え物の方がたいせつだと思い違いをしていたのです。 

このことにたとえがあるでしょうか。 
祭壇は今でいう神にささげものをする奉仕をする場としての教会のたとえでしょ
うか。 
供え物は、今の奉仕者、神にささげられた献身者のことでしょうか。 

そこで今風にいうなら、この箇所では、行き過ぎた人間中心、器崇拝の 
危険について語っていると理解できます。 

かつての日、律法学者、パリサイ人は、間違えを犯し、供え物を過度に重用視
して、 いました。今の教会も同じく、供え物中心、器中心なのです。 

しかし、イエスは、「 目の見えぬ人たち。供え物と、その供え物を聖いものに
する祭壇と、どちらがたいせつな のか。」と語りました。器を崇拝す
るあまり、行き過ぎることを戒めているように聞こえます。 
  

今の教会は、器中心主義、働き尊重主義です。しかし、これらの供え物には、
その分があるべきであり、 
それを超えた、過度な尊敬を受けすぎるべきではありません。 

たとえば、日本の福音派は、あの供え物、パウロ以来の最大の伝道者との触れ
込みのビリーグラハム をむやみに尊敬、重用視し、それこそ、
聖書も神の教えも教会のあるべき姿もみんな捨てて後をおっかけていま 
す。 

ビリーグラハム様が自由主義者と親しくすれば、イエスを冒涜し、イエスの復
活はない、 奇跡はない、こいつはただの詐欺師の大工だといいたいかのごとき、あの敵、どあほう自由主義者どもを親しく迎え入れています。 

また、ビリーグラハム様が、カソリックには何も問題を感じないといえば、 
愚かにも、あの悪霊マリヤの礼拝集団を喜んで受け入れ、すりすりして、 
エキュメニカルへ推進していきます。 

これらの愚かな日本の福音派は、自分で考えたり、吟味することをせず、ただ、
器が 良いといえば、思考停止し、ゲヘナでも背教でもどこへでもついていく 
愚か者の集団です。供え物を過剰に尊重しているのです。 

彼らに少しでも自分で考える習慣があるなら、果たして、「キリストと共同の
 あがない主マリヤ」「聖四位一体」などとの異端教理を持つカソリックを受け
入れるべきなのか、 こんなおかしな教会に問題ないという、ビリーグラ
ハムなどというおっさんはトンでもない 
まがい物ではないかと、少しは考えるはずです。 

しかし、現状は、彼らはビリーグラハム様様、エキュメニカル推進であり、 
何一つ見ていない、愚か者であることは明白です。 

”21 また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさし
て誓っているのです。 
” 

神殿とは、その当時、神を礼拝していたところです。 
神殿は、厳かであり、その場所は、尊重されていました。 
皆、服装を整え、威儀をただし、恐れをもって、神殿に仕え、参拝していたの
です。 

この場所は、同じ建物でも、食堂やら、旅館やら、お店とは異なり、 
みな特別な尊敬と特別な意識をもって、接していました。 
  

それは、確かであります。しかし、そのため、その神殿に仕える人の中には、
時々、勘違いを起こす人々が 
いました。あまりにも皆に尊敬されたり、敬われたりするので、自分が何様で
あるぞと 勘違いする人々です。すなわち、祭司、レビ人、パリサイ人、律法学者達です。
 

しかし、それらの勘違い人種に対して、主は、はっきりと、 
「神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓って
いるのです。」 
といわれました。 

このことばの意味合いは何でしょう? 

いわんとしていることは、何故神殿が尊いところなのか、特別な建物、特別な
場所、 またそこに仕えている人々が特別に尊敬されるのかその由来です。 

主ははっきりと、 
「神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓って
いるのです。」と いわれました。いわんとしていること、
結論はこういうことです。 

神殿が尊く扱われているその理由は、 ただただその中に住まわれる方、
神御自身の住まいだからということに尽きる、
そういっているのです。 
  

皇居は日本の中で特別な場所であり、東京の中心、みどりとお堀に囲まれた特
別な 場所です。しかし、その特殊性は単に、東京にあるから、
また緑がきれいだからというだけでは 
ありません。何といっても皇居の特殊性は、日本で唯一の場所、万世一系の天
皇の住まい、そのことに尽きるの です。 

同じく神殿の特別な場所であるその理由は、神御自身の住まいである、それに
尽きます。 

しかし、その神殿ももし、背教の場所となり、神を追い出し、イエスを追い出
すようになるなら? 
その時は、意味のないもの、無用の長物として、破壊、滅ぼされるでしょう。
 

旧約の神殿の重要性とは、その程度のものであり、それを超えることはありえ
ません。 
同じく、新約の神殿、教会の重要性もその程度のものです。 
はかりしれない重要性が神殿そのもの、教会そのものにあるわけではなく、神
また、イエスへの 尊敬、礼拝に附随していわば、おこぼれで尊敬
を受けているに過ぎないのです。
 
もし、曲がった道をいくなら、神殿、教会も 
早晩、滅ぼされる運命にあります。 
この様なことばは極端ですか? 

そんなことは、ありません。神はソロモンに対して、宮、神殿が投げ捨てられ
る日に関して、 以下の様に明言しています。 

”1列9:6 もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしにそむいて従わ
ず、あなたがたに授けたわたしの 命令とわたしのおきてとを守らず、
行ってほかの神々に仕え、これを拝むなら、
 
7 わたしが彼らに与えた地の面から、イスラエルを断ち、わたしがわたしの名
のために聖別した宮を、わたしの 前から投げ捨てよう。こうして、
イスラエルはすべての国々の民の間で、物笑いとなり、なぶりものとなろう。 
8 この宮も廃墟となり、そのそばを通り過ぎる者はみな、驚いて、ささやき、
『なぜ、主はこの地とこの宮と 
に、このような仕打ちをされたのだろう。』と言うであろう。 
9 すると人々は、『あの人たちは、エジプトの地から自分たちの先祖を連れ出
した彼らの神、主を捨てて、ほか の神々にたより、これを拝み、
これに仕えた。そのために、主はこのすべてのわざわいをこの人たちに
下された のだ。』と言うようになる。」” 

また、主イエスも宮、神殿の崩壊の日に関して明確に預言しています。 

”マタイ24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イ
エスに宮の建物をさし示した。 
2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはって
いるのでしょう。まことに、あな たがたに告げます。ここでは、
石がくずされずに、積まれたまま残ることは決
してありません。」 
” 

このことばの様に主イエスを拒絶した宮は、ローマの攻撃の日に崩壊しました。
 
また、宮で予表される教会も後の日、イエスを否定するため、いずれ崩壊しま
す。 

”22 天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うの
です。” 

天は、星にたとえられるアブラハムの子孫の住むところとしての教会のたとえ
でしょうか。 
人は、天をさして誓います。何故なら、天こそ、不動のものであり、尊く、厳
かなものだからです。 
それは確かかもしれませんが、しかし、天の尊さは、ひとえに「神の御座」が
あるから、「そこに座しておられ る方」神がおられるから、そうで
あるからなのです。 

天そのものが単独で尊いと言うわけではないのです。 
このことは、あの勘違い集団、惑わされた異端派キリスト教、あほたれ法皇に
導かれている、 勘違いカソリックがよくよく理解すべきことがらです。 

彼らは異常に教会を偏重しています。 
法皇無原罪、マリヤ無原罪、マリヤ被昇天などのあらゆる教理を、 
教会が出した教理には間違いがないとのへ理屈により、信者に強制しています。
 
異常に教会に重きを置くのですが、しかし、その範囲は、聖書の教えを逸脱し
てます。 教会の範囲、それが尊ばれる範囲とはどこまでなのでしょうか? 

それは、「天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして
誓うのです。」とのことばの中に 如実に現れています。 
  

天、すなわち、教会の尊さはそこに座しておられる方がいるから、尊い、それ
に尽きるのです。 
しかし、もし、その天がそこに座しておられる方を否定し、逆に悪霊マリヤ崇
拝などを推賞しだしたら? 
早晩、この天は呪いの下に入ることが想像されます。 

”23 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっ
か、いのんど、クミンなどの十分 の一を納めているが、律法の中ではる
かに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているの 
です。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかに
してはいけません。” 

ここでは、十分の一をもれなく捧げているが、しかし、もっと大事なこと、正
義もあわれみも誠実もおろそかに している偽善の律法学者、パリサイ人
たちへの非難が書かれています。 
  
  

彼らの問題は何でしょう?それは、すなわち、偽善であるために、ものごとの
軽重が判断できず、 ささいなことに異常な力点を置き、結果もっとも
大事なことから、目を離してしまうという問題です。 

今の教会においても十分の一献金は大いに勧められています。 
このことは勿論悪いことではないのでしょうが、しかし、問題は、強調点を間
違えてしまうことです。 

ささいなことにあまりにも時間をかけすぎ、強調しすぎ、エネルギーをかけす
ぎ、 大事なことを理解するエネルギーが残っていません。 
または牧師がどうでもいいことばっかり、メッセージをして、もっとも大事な
ことに 関して、ほとんどメッセージをしない;結果、神の民は、
見当はずれな歩みに入る、 そういう問題があるのです。 

主は、十分の一献金より、もっと大事なこととして、「正義、あわれみ。誠実」
について 語っています。このことを見てみましょう。 

正義という日本語の訳は、勘違いしそうな訳です。 
このことばは、KJV訳で Judgementと訳されています。要するに裁きのことなの
です。 ここで主は偽善の律法学者、パリサイ人は神の裁きについて述
べていないと非難しているのです。 
そしてこのことはそのまま現在の教会の偽善聖書学者、偽善牧師に通じます。
 
彼らは神の裁きについて述べていません。 

この終末の日に背教の教会に裁きが来らんとしているのですが、このことを語
る牧師、聖書学者は、 私の知る限り、ほとんど皆無です。誰も彼も、
耳ざわりのいいたわごとを語る偽預言者の道を突き進んでいま す。 

聖書は明らかに終末の教会が背教に入り、結果、あらゆる災いが教会に来るこ
とを語っているのですが、 偽善のゆえに盲目になった役立たずの牧師は、
艱難時代の前に教会は挙げられるなどと聖書にもない、 
嘘教理をねつぞうし、根拠のない、安心を信者に与えています。 

結果、今こそ、教会は、またクリスチャンは悔い改め、歩みをただすべき時な
のですが、 誰も歩みをただそうとしません。 

盲目な勘違い牧師のゆえに正義すなわち、裁きは現代の教会のメッセージから、
消え去ったのです。 

誠実という日本語もまた、あまり適切な訳ではないように思えます。 
このことばの原語は、ピステス、信仰という意味合いがあります。 
だから、ここでは、大事な信仰について語らないと主は批判しているのです。
 

それで私達もこのことばを真面目に考え、信仰について語ることを覚えましょ
う。 

教会は何といっても信仰の場所であり、信仰にある歩みこそ、 
クリスチャンの間で強調すべきことがらであることを覚えましょう。 
  
  
  
  
  

” 
24 目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはの
みこんでいます。” 

このことばの意味合いは何でしょう? 
いわんとしていることは、どうでもいいことを守ることに力を用い、エネルギ
ーを費やし、汲々とし、 結果、もっとも大事なことを見のがしてしまう、
そういっているのです。 

そしてこれは、教会においても往々にしてあることなのです。 
今のキリスト教会はどうでもいいこと、大して重要ではないことに大きな時間
を費やし、結果、 大事なことを考えるエネルギーは残っていません。 

靖国反対だとか、クリスマスの劇がどうだとか、そんなことばかり、話し合っ
ており、 大きなこと、大事なこと、すなわち、今のキリスト教会を覆お
うとしている、背教の嵐、 聖書かいざん、エキュメニカル運動の推進、
そういったことには関心がないようです。 

「目の見えぬ手引きども」とはよくいったものです。今の時代、大きな問題は、
 
手引きである教会の指導者の目が見えないということであることをよくよく知
るべきです。 

トロント、ペンサコーラリバイバルの霊は本当に神からの霊なのか? 
人を獣の様にさせる霊が本当に神から来るものなのか?この霊が悪霊に過ぎな
いことは、目の開かれた 人ならわかるはずのことなのですが、しかし、
見えない牧師が多いです。 

聖書がますますかいざんされるこの時代をどうとらえるべきなのか?この時代
は明らかに終末の様相を呈してい るのですが、しかし、時代を見るこ
とのできな い牧師も多いようです。 

目の見えぬ手引きどもに引かれる教会は危険であり、せっかく礼拝に行っても
どうでもいいことばかり、 聞かされ、今の時代においてもっとも大事なこ
とを教えられない危険性があるのです。 

”25 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や
皿の外側はきよめるが、その中は 強奪と放縦でいっぱいです。 
26 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、
外側もきよくなります。 
” 

ここでは、「杯や皿の外側は」きよめるが、「その中は強奪と放縦でいっぱい」
 
の偽善の律法学者、パリサイ人たちについて語っています。 

このことの意味合いは何でしょう?私の理解では、人の見るところのみ、良く
しようとする、偽善と思えます。 

今の時代のキリスト教会の一つのキーワードは偽善であることを知るべきです。
 
教会や、聖会でのもっとらしい言い回しやら、ていねいなことばのみに力点が
置かれています。 真に大事なことには目がいきません。 

結果、見える形のみに力点を置き、真に深刻な問題を理解できません。 
たとえば、あの愚かな勘違い女、マザーテレサの異端信仰を 
偽善なカソリック信者ども、阿呆たれなプロテスタント偽善信者どもは何一つ
理解できません。 
また、その深刻さを理解できません。 

この女は、マリヤを聖四位一体の位置に置こうなどという異端教理を振りかざ
し、また、 ヒンズー教徒は、死ぬ時もクリスチャンになる必要はないな
どと勘違いしたことを語っているのですが、 
悲しいかな偽善カソリックには、これらの異端信仰の深刻な問題が見えません。
 

彼らは偽善者、善であるふりをしている、役者に過ぎず、実際には、善も真理
も 持ち合わせていないので、この問題を真に理解できないのです。 

しかし、このことには、みこころがありません。かつての日、偽善の律法学者
 パリサイ人がゲヘナの火を免れなかったように、現代の偽善、教師、牧師、 
神父の前には、ゲヘナが確定済みの指定席として待っていることをよく 
覚えましょう。 

終末における主のみこころを行いましょう。 

ー以上ー 
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  

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