2008/10/03
中国人大学生との別れ-2 (045)
「追われる日本、追いつく中国」 ━ 日本語教師のメガネを通して見る中国 ━ 中国人大学生との別れ−2 (045) 1年生も、同じレストランへ招いてくれた。 彼らにしてみれば、老師を送るという気を遣う行事は初めての経験だ。 3年の班長(クラス代表)が、場所選びで彼らの相談を受けたという。 全員で17人、他の大学の日語学科では1クラス40人が普通と聞く。 語学の専攻学生としてはたいへん恵まれた環境で学ぶ。会話の授業を 担当したわたしも進めやすかった。送別会は、わたしを入れて全員で 18人、特大の丸テーブル1つの周囲に小さな丸椅子を18個も並べ、 身を寄せ合う窮屈な宴会だった。中国の会食は必ずといってよいほど 丸テーブルを使う。話が前後左右に良く通り、一体感が生まれて良い。 しかし、日本語習得暦1年だと簡単な日本語での会話も簡単ではない。 進行役が、中国語を途中で交えるのもやむを得ない。 食事の半ばからトランプゲームを全員で楽しんだ。 中国の会食は、満腹になっても丸テーブルにいろいろな残りの料理を 載せたままだ。ゲームの途中、急に思い出したように食べる者もいる。 そうはいっても、その席で人気のなかった料理しか皿に残っていない。 同じゲームが日本にもあるらしいが、予め決めた札に指名権を持たせ、 それを手にした者が、残りの者に芸を要求できる。ババ2枚が入った トランプ18枚を全員に配る。残り16枚は赤と黒の1から8までだ。 何が誰に渡ったか分からない。ババを受け取った2名が名乗り、それ ぞれが、16枚の中の1つのカードの番号をいい、その所有者に芸を 要求する、というもの。歌とか、一気飲みとか、男女で腕を交差して 飲めとか、意外に過激な注文がない。それでも、大いに盛り上がった。 あたかも、ゲストの存在を忘れた送別会のように。 3人の同僚も、それぞれ送別会をしてくれた。 主任は主婦兼業、内装に1年もかけた203平米の豪華マンションが 完成、披露も兼ねて呼んでくれた。空調は三菱、居間にあるテレビは ソニー、中国製がいくらでも売られているが、日本通の彼女としては、 日本ブランドに軍配を上げたのだろう。同行した中国人同僚ともども モデルルームのような豪華さと整然さに息を呑んだ。彼にいわせると、 主任一家は明らかに富裕層だという。ご主人は国営系公司のNo.2、 そこが分譲したマンションを買った。日本円にすると約2千万円だが、 ヒモつきだったために格安で買えたという。一番若い同僚は新婚さん、 新居に呼んでもらった。農業を営む父親の援助で買ったマンションだ。 こちらのTVは東芝、国産に比べて格段に高いが、品質が良いという。 男の子がいる主任も、結婚前の彼も、わたしが滞在した2年半のうち 1年間は、日本に渡ってそれぞれ高校教師と大学の研究員をしていた。 大学の日本語教師は、英語教師に比べて日本へ行く機会が意外に多い。 ODAの支援策(円借款)が終わったとはいえ、日中間のこの傾向は 形を変えてつづくはず、彼らは2回目、3回目の渡航に望みをつなぐ。 2人とも、心のこもった手料理をたくさん用意して大歓待してくれた。 こういうときの中国人の身の入れようはすごい。 外事処と外国語学院共催の送別会も昼にあった。 こちらは、「歓送日籍教師座談会」という赤い横断幕が会議室正面に 張られ、副処長と副院長、日語学科の同僚、学生代表などが出席した。 副処長と副院長とは、通常軽く挨拶するだけの仲だが、そこは中国人、 いつまでつづくのかと思うほど長々と雄弁に歓送の辞を述べてくれた。 記念品(ダンヒルのキーホルダー)を贈られ、演説が一通り終わった ところで、バナナやビスケット、アメなどを口にしながらの座談会に。 JICA隊員が去るときは、大学の副学長と学院の書記が出席したが、 わたしの場合は格落ちだ。相手次第で大学側の構えがはっきりと違う。 徹底されたヒエラルキーが支えている中国だからこそ、それにしても、 公式行事の運営についての中国人の準備万端振りは真に見事といえる。 院長が欠席したのは、高校入試を控えた息子の成績が良くなく、その ケアのためだったそうで、これは同情するしかない。記念撮影を終え、 学生と別れると、クルマに分乗して大学近くのレストランへ向かった。 帰国する日までの数週間、中華料理攻めと相成った。 学外で知り合った日本人たちも歓送してくれた。 市内には日本食屋もどきが数軒あるが、本格的なものは1軒しかない。 それは、日本企業を誘致するために建てられたオフィスと住居を兼ね 備えたビル内で営業している。大胆不敵な先行投資に驚いたものだが、 まだ埋まっていないばかりか、新開地の端の端にあって足が向かない。 仄聞したところ、近くの台湾の企業などが常連客になっているらしい。 洋食屋もホテルを除くと数が少ない。中華で食傷気味になったために、 ホスト役には洋食屋での送別会をリクエストした。彼らとの集まりに よく使っていた店があるのだ。コック長は、シンガポールのホテルで 働いた経験を持つそうだが、少々イタリアンに偏ってはいる。しかし、 市中で生ビールを探すのは困難なところ、ここでは珍しく飲めるのだ。 日本語の教師が断然多く、合弁企業で働く人は少ない。男性は全員が 単身赴任、女性は全員が日本語教師で30歳前後が多く、みな独身だ。 彼女たちは中国語ができ、何らかの形で中国に強い関心を抱いている。 老いも若きも、わたしの帰国をうらやましがるような人はいなかった。 彼らのますますの健闘と再会を念じつつ別れた。 帰路の上海では、近辺で働く卒業生たちと会った。 上海には、空港が虹橋と浦東の2ヶ所にある。通常は、小都市からの 国内便は虹橋に降り、シャトルバスで浦東へ移動し、そこから海外へ 行く国際線に乗らなければならない。虹橋と羽田の直行便が開通して 便利だが、運賃が割高なので利用しない。そのため、乗り継ぎまでの アイドルタイムが生じ、つぶすのに苦労する。卒業生が出た去年から、 この乗り継ぎの余剰分を利用して彼らに会う習慣になった。短くても 1時間以上はあるので、何れかの空港で会う。わたしも気を利かせて 土日を選ぶため、勤務地から2、3時間もかけて来てくれる。彼らの 底抜けの人の良さの象徴か、老老師のためを思って駆けつけてくれる。 今回は、わたしが浦東から磁浮列車(リニアモーターカー)で市内に 至近の駅(龍陽路駅)まで行ってそこで集合したが、新しい卒業生も 加わって総勢20人近くになった。何と前日、キャンパスのわたしの 部屋で別れたばかりの者までいた。夜行列車で先回りしていたという。 去年の卒業生の旗振りで近くの豪華なレストランへ行き昼食、結局は、 彼らの懐を痛めることになった。新しい卒業生も歓迎するというのだ。 龍陽路駅に戻り、惜しみながらそこで彼らと別れた。 中国での2年半、いろいろな人とつながりができた。 圧倒的に若い中国人だったが、世話になった日本人も少なからずいた。 多くは良い思い出ばかりが残り、幸いにして悪い思い出は1つもない。 これからどう報いていけるか、つぎの課題が生まれた。 さぶみごろう つづく


