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2008/09/07

***DOKUSHO-ZARU No.139***

=== Reading Monkey ======================================
   読 書 猿   Reading Monkey
     第139号 (場所の記憶号)
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  ■読書猿は、全国の「本好き」と「本嫌い」におくるメールマガジンです。
  

■■ヘイズ、スミス『〈あなた〉の人生をはじめるためのワークブック―「こころ」
との新しいつきあい方アクセプタンス&コミットメント』(ブレーン出版)==■

 痛みや不安を回避することは、痛みや不安を大きくする。このことは多くの実験
や、多くの臨床経験で、繰り返し確かめられている。 

 不快なものを避けることは生物として当然のことだ。不快なものは、おそらく生
命や生活に対する危険とつながりがある可能性が高く、不快なものをさけることは、
危険を避ける可能性を、そして生物が生きのびる可能性を高める。おそらくは、不
快なものを避ける仕組みを持った生物(そうした仕組みをもたらす遺伝子)が進化
を通じて生き残ってきたのだろう。我々もそうした生物の子孫、不快なものを避け
る仕組みを持った生物である。 

 ヒトが暮らす環境は、かつて進化が進んだ環境とは、かなり異なってしまった。
そこでは不快なものは生命の危険との結びつきは必ずしも強くない。たとえば我々
が不安障害と呼ぶものは、危険でない不快なものを過剰に回避させることを含んで
いる。最初は小さな不快さであったものが、それを回避しているうちに、ますます
不快の大きさが増していく。そしてますます不快となり、ますます回避していく。
この悪循環のために、症状は維持され強化され、その人の生活範囲はどんどん縮小
していく。「不快なものを避ける仕組み」が働きすぎる故に、人はおよそ合理的な
範囲を超えて、不潔さを回避し、不安を回避し、不安を回避するための儀式を際限
なく繰り返すことになる。 

 もうひとつ、ヒトは言葉を持ってしまった。言葉は、様々な体験を結びつけ、再
構成する能力をヒトに与えた。人は外界を理解し、予測し、それを別のヒトに伝え
ることができるようになった。すばらしいこのヒトの能力は、しかし「不快なもの」
に関しても、同様に働く。ヒトは、直に不快なものを体験しなくても、言語能力を
通じて、体験していないものについても、外界についての判断や解釈からも、未来
の予測からも、誰かほかのヒトからの影響によっても、不快さを「体験」する能力
を持ってしまった。 

 アクセプタンス・コミットメント・セラピーは、上記のような実験的にも臨床的
にも確かめられた知見に基づいて組み立てられている(認知療法は、わかりやすい
が、その実、根拠はいまいち不確かだった)。不快さを回避することで強大化させ
ないためのスキルは(何もせずにほっておけ、なんてとんでもない)、一部は行動心
理学や行動分析の知見や技法から、一部は仏教の修行法であるヴィパッサナーから
心理療法に取込まれたマインドフルネスと総称されるテクニックから、得られてい
る。解釈し、予測するヒトの能力を休ませて、今現在起こっていることのみに注意
を向け、観察する。それだけでも、ヒトは不快さから逃れようとすることで不快さ
を増強する悪循環を止め、不快なものとつきあい方を学び始めることができるのだ。

 あなたの教えに従っても、死者は生き返らず、病いも消え去らない。だったら何
の意味があるのか、と問われてブッダは「二の矢を受けず」と答えた。一の矢、自
分や家族やその他あらゆるヒト、生物の死も、病いの苦しみも、は消え去ることは
ない。けれど、二の矢、苦しみについて苦しむことは、やめることができる。アク
セプタンス・コミットメント・セラピーは、死んだヒトを生き返らせたり、別れた
恋人を戻って来させたりはできない。けれど、苦しみを避けようとすることによっ
て一層苦しめられるといった悪循環を断ち切り、苦しみをどう扱い、そこから何か
を学ぶ術を(痛みを感じることは、痛みとは別の道へと進んでいく第一歩だ)、そ
んなやり方のいくつかを教えてくれる。


■■アーレント=シュルテ『魔女にされた女性たち』(勁草書房、2003)===■

 低地ドイツやオランダ語圏では、16世紀半ばまで、魔女といえば、牛乳魔女の
ことを指していました。牛乳魔女とは、牛乳魔術を使う魔女で、この魔女にかかる
と、我が家の牛から取れる牛乳の量はごく少ないものになるか、まったく取れなく
なります。 

 命すら奪える魔術に対して、牛乳魔術とは、あまりに些細な感じがしますが、こ
の地方での町に住みながら農業もやる兼業農家にとって、ミルクやそれから手作り
するチーズは、自分の家で消費する他に、町で売って現金収入を得る貴重な手段で
した。彼らは農業と家畜を飼うことに加えて、町で雑貨や何かを売ることなど、一
切合切で生活できるぎりぎりの収入を得ていました。そんな中で牛乳の量が減るこ
とは、致命的にもなりかねない事件でした。 

 牛が病気であったり、餌を十分与えられなかったり、牛乳の少なさを説明できる
通常の理由が見当たらない、しかも事態は何年も、複数の牛について続いている、
となると、彼らは原因を賢者に尋ねます。そして賢者は、牛乳魔術がかけられてい
る可能性を示唆します。 

 賢者の指摘を後ろ盾に、彼らは、ある隣人を、牛乳魔女として告発します。何故
彼女なのか。それは彼女が、周囲の誰にもまして、チーズをつくるのが上手かった
からです。 

 「誰かが得するためには誰かが損しなければならない」という総量一定の原則(
それとも感覚?)を、素朴心理学(フォーク・サイコロジー)を参考にして、素朴
経済学(フォーク・エコノミクス)の第一公理と呼ぶことにしましょう(笑)。 

 経済学の名誉のために申し添えると、近代社会とそれに応じた経済学は、総量一
定の原則の破れとその把握からはじまります。たとえば10人による分業は、10
人が個々ばらばらに働いた以上ものをもたらします。その他にも、規模の経済、比
較優位といった概念も、「総量一定の原則」の破れに関わるものです。また「総量
一定の原則」に真っ向から反する「取引によって誰もがトクをすることがあり得る」
ことは「パレート改善」という概念として取り入れられています。

 総量一定の原則はしかし、魔女狩りが行われた近世ヨーロッパを通じて、広く信
じられ、ごく自然なものとして捉えられていた常識的な考えでした。

 総量一定の原則は、いわば嫉妬の原理です。この考えに従って、件の牛乳魔術を
考えるとこうなります。ある家の牛が平均よりも多くのミルクを出す、あるいはミ
ルクを原料とするチーズが平均以上に多く(またはうまく)作っている。その一方
で、別のある家の牛は、ほんの少ししかミルクを出さず、また作っているチーズは
失敗つづきである。その理由は、誰かがミルクを不思議な仕方で奪って自分のもの
にしているからだ。。。 

 牛乳魔女がなぜ「女性」ばかりなのかは、当時の性分業の説明してくれます。つ
まり、乳搾りや牛の世話、牛乳から乳製品をつくる仕事などはすべて、「女性の仕
事」とされていたからです。牛乳を扱う仕事がうまい/へたなのも、その成功失敗
の責任を追わされるのも、女性でした。 

 魔女狩りは、民衆からの告発に始まることが多かった。魔女として訴えられたも
のに8割は女性だったと言われます。よく知られるように、「魔女」(として訴え
られ裁かれたもの)は女性ばかりではありませんでした。しかし女性がこれほど多
い理由は説明を必要とします。実のところ、訴えられる民も、訴える民も、女性で
あることが多かったことも見逃せない点です。 

 魔女として訴えられる領域は、女性の性分業と大きく重なっています。 
 たとえば、19世紀のドイツの歴史家ミシュレは、魔女を「民衆の女医」として、
正規医療を受けることができたのは人口全体のほんの一部であった長い時代には、
彼女たちが、人々に医療サービスを行う唯一の者たちであったと、しています。ま
たアメリカのフェミニスト研究者エーレンライクとイングリッシュは、「魔女とさ
れた人々は女性医療師たちであり、魔女の集会とは、女性医療師たちによる情報交
換の場であった」と考え、「魔女狩りとは世俗権力や教会の指導者たる男性たちに
よる女性医療師への大規模な弾圧であった」という説を唱えました。 

 しかし「女性医療家」という独立した存在を想定する前に、病人の看護・看病自
体が(牛の世話などと同様)「(家庭内の)女性の仕事」とされていたことを、見
落とす訳にはいきません。どの家の女性も母から子へ「我が家の処方箋」ともいう
べき、今日なら民間療法にあたる「癒しの知恵」を受け継いでいました。そして誰
かの家で、「治る見込みのない病人」が快癒し、また別の家で、それほど重い病い
でないと思われていた者が不幸にも二度と立つことができなくなった場合、(村の
コミュニティの様々な、人間関係の力学が働きますが)、「誰かが得するためには
誰かが損しなければならない」という総量一定の原則を人々は適応し、治癒魔術と
疾患魔術を用いた者として、誰を不幸の原因の宛先にするかを、知ることができる
という訳です。 

 産婆や知恵ある術師などが、従来信じられたようには、数多く魔女として裁かれ
た訳ではなかったことが、今日では分かっています。魔術師は、「度重なる不幸」
の原因の相談を受け、それに「魔術」というレッテルを貼って、誰が悪い魔術を施
した魔女なのかをアドバイスして、間接的に民衆による魔女の告発をサポートした
りもしました。無論彼らとて、出産を成功させる力を持つことは、死産の責任を負
うことと裏腹になっていること、「誰かが得するためには誰かが損しなければなら
ない」という総量一定の原則が、自分の技にもかかっていることを、知らないでは
いられませんでした。不幸で、普通でない死産が続いた場合、それに関した産婆や、
その産婆をタイミングわるく尋ねた隣人が、「悪い魔術」を使ったかどで告発され
ることがありました。そのお産に呼ばれなかった別の産婆が、告発する民衆のアド
バイザーとして、あるいは告発者本人として、登場することもあったようですが。 


■■『管子』(徳間書店、他)=====================■

 衣食足りて礼節を知る*1。
 
 衣食足りることが常態(あたりまえ)ではなく、足りることがあっても、それは
ローカルな範囲でのみ足りるに過ぎなかった時代や社会では、この言葉は妥当性が
あった。 

 「衣食足りる」ことが、広い範囲で常態(あたりまえ)となると、衣食自体が「
礼節」の一部になった。彼が埋め込まれている人間関係・社会関係とその中での位
置が、何をどのように着るのが正しいのか(また間違っているのか)、何をどのよ
うに食べるのが望ましいのか(また望ましくないのか)を、規定する。また逆に/
その結果として、何をどのように着て何をどのように食べるかは、彼/彼女がどの
ような人間関係を現に取り結び、また可能性として取り結び得るかを、如実に反映
している。 

 群れなす動物としての人間は、個体間の関係(人間関係)を様々な形で利用して、
生き物として必要なものを手に入れ/あるいは死の可能性を低下させて、生存して
きた。個体間関係に生存可能性を依拠する生き物は、複雑な個体間関係を処理する
能力を持つようになった(これは鶏ー卵の関係で、どちらが先かは、意味のある問
題ではない)。個体間関係の複雑さは、相手の行動を予測することを例にすれば、
以下のように示すことが出来る。個体Aは、個体Bの行動を予測する。そのために
は、個体Bもまた個体Aの行動を予測することを考慮に入れなければならない。そ
して個体Bによる個体Aの行動予測もまた、そのこと自体を個体Aが予測すること
を考慮に入れなければならない・・・・・・2体の個体の行動予測は、「行動予測
の行動予測の行動予測の・・・・」といった具合に、合わせ鏡が生み出す無限の反
射のごとく、果てのないものになり得る(ホームズーモリアーティの相互行動予測
を参照せよ)。しかも、集団には、考慮すべき個体がもっとたくさんいる。いずれ
にせよ、かなりのエネルギーとそれを処理する能力とを、個体間関係に費やす必要
がある。 

 さて、生存のために、かつてほどには、ほとんど個体間関係の処理に自分のエネ
ルギーや能力といったリソースを費やす必要がなくなった場合である。衣食は満ち
足りて、それらを手に入れるために、複雑な個体間関係(人間関係、社会関係)の
処理にかつてのような大量のリソースを投下する必要がないならば、余ったリソー
スは何に向かうか?何に投じられるか? 

 ここで話は二つに分かれる。 

 ひとつは、個体間関係からの(部分的にせよ)撤退/退出が可能となるため、人
間関係、社会関係からの「引きこもり」と、別のことへのリソースの投下=「マニ
ア化」が可能となる。こうした生き方は誰にでも/いつでも可能という訳ではない
が、少なくない人がそうした生き方を選べる条件が(ひょっとすると歴史的にはか
なり特殊なことかもしれないが/たとえば地球の異なる地域の同年代は、否応なく
ストリートに出て強奪など直接的に生きるための物質を手に入れるべく、ストリー
ト・ギャングという、リスキーかつストレスフルな集団に身を寄せなければならな
いかもしれないが)一部にせよ成立している。 

 もうひとつは、物質的な生存手段を入手するための個体間関係処理は不必要だが、
個体間関係のための個体間関係処理、すなわち自己目的化した個体間関係(人間関
係、社会関係)の処理に、リソースの投下が行われる。人間関係のための人間関係
のための人間関係・・・・・。衣食などの物質的側面もまた、社会関係/人間関係
の記号/媒介である側面を無限に大きくしていく。

 商品交換があまねく行き渡った社会ほど、お金の力は大きくなるように、個体間
関係がそれ自体を目的に動員されるような社会になればなるほど、個体間関係を優
位に進めることのできる要因、たとえば(その時代/社会の基準において)「美し
さ」や「(立ち振る舞いの)優美さ」などは、レバリッジ(てこ)が働いて、より
大きな力を持つようになる。ある個体間関係が別の個体間関係を扱うことに利用さ
れる社会では、ひとつの個体間関係で有利なことは、他の個体間関係においても有
利さを発揮できるからである。
 
 衣食満ち足りて、いまや衣食自体が「礼節」の一部となる。

*1 もともとは「管子」牧民の「倉廩(そうりん)実(み)ちて則ち礼節を知り、衣
食足りて則ち栄辱(えいじょく)を知る」。


■■金森修、中島秀人他『科学論の現在』(勁草書房)==========■

科学は、確かに科学者たち(科学者コミュニティ)の営為だが、科学者だけの営為
ではない。そこでは(他の社会集団と同じように)議論やかけひきや利害関係や権
力関係やら非合理な感情がごった煮だが、科学者は科学者以外の何かに対している。
それを古風に自然と呼ぼうと、哲学的に実在と呼ぼうとかまわない。物理学者のファ
インマンは、このように言った。「自然科学が教えてくれることは、科学者が何を
信じて何を思いめぐらそうと、自然の方にはそれにつきやってやる義理はない、と
いうことである」。 
 科学哲学者たちが繰り返し指摘した「観察の理論負荷性」は、「人は己の見たい
ものだけを見る」という主張と同じではない。人は己の見たくないものだって見る。
実在とは、ラテン語でresと綴るが、同じ語源を持つコトバにresist(抵
抗する)があるように、働きかける人間の意のままにならぬ存在を意味した。科学
の社会構成主義は、科学をあまりにも「人と人の関係」だけに還元しすぎている。
少なくとも、科学哲学者たちが指摘したのも、まずは自然科学の対象である自然=
実在=モノと科学者(人)との関係であった。モノを消し去った科学論は、科学の
科学たる部分を取り落としている。現象一元論者マッハに対する唯物論者レーニン
の批判は、そこにあった。実在についての知識は、増えて来たし、今後も増えてい
くだろう。その意味で我々の知識はつねに不完全だ。けれど、「実在が我々の頭か
ら出てきた(実在は社会的構築物である)」といった戯言は許せない。人間は自然
科学より古いが、自然は人間より古い。自然科学の諸概念はたしかに我々の頭の産
物であるかもしれないが、実在は自然科学の前提であるだけでなく人間の前提でも
ある。 
 哲学者としては健気なまでに古風なレーニンであるが、自然科学者の多くは、い
まも彼同様に、実在論者である。それにつき合う科学哲学者も、多くはヒトとモノ
(科学者と自然)の関係に注視するが、ヒトとヒト(科学者たち、科学者コミュニ
ティ)については、それを論じることを汚らわしげに回避する。 
 いったいヒトーモノ、ヒトーヒト、そしてモノーモノ、これら全部をきちんと扱
い得る科学論はないのか。 

 次にやってきた科学を研究しようという人たちは、科学についての思弁を練り上
げるかわりに、あるいは科学の歴史を示す古い文献を丁寧に突き合わせるかわりに、
科学者が実際には何をやっているのかを参与観察することから始めた。人類学者の
ように、科学者たちの住まうムラ(研究室)にやってきて、科学者たちの研究室に
潜り込み、そこでフィールド・ワークをやりはじめたのである。 

 科学者たちが毎日やっていることは、科学哲学者がいうこととも、また科学者が
いうこととも、違っていた。反証可能性にしろ、理論負荷性にしろ、すべては実験
と観察について述べていたように、科学の科学たるところは、実験・観察というヒ
トがモノに対する営為だと、誰もが主張し、そうした前提にたち大議論をしてきた。
ところが科学者の日常ときたら、まず、ほとんどの時間を論文やなにかを読むこと
に費やしている。これは実に当たり前のことだ。科学者たちが互いに結ばれ情報を
やり取りし、今何が問題であり、何を明らかにする研究が、今自分たちの属するコ
ミュニティでは意義があるか、その研究のうち誰かがどれだけすでに手をつけてい
て、何が手つかずで残っているか、そうしたことをまず知らなければ、何を研究し
てよいか決まらない。そして互いに結ばれ情報をやり取りする手段がジャーナルな
どに掲載される論文というメディアだ。研究室生活の第一歩が、そして多くの時間
が、論文読みに費やされることなど、研究室一年生だって知っている。 

 しかしここで明らかになったことがある。「科学者コミュニティ」と呼ばれて来
たヒトーヒトの関係(ネットワーク)は、実は、ジャーナルや論文の抜き刷りなど
のモノを媒介して成立している、ということだ。クーンがいう「パラダイム」など
もまた、ただ科学者のアタマのなかにあるのではなく、同様のモノの媒介をつうじ
たネットワークとして存立している。もちろん、ジャーナルといったモノもまた、
それを成り立たせる投稿者、査読者、編集者などのヒト(のネットワーク)によっ
て存在しているのであるが。 

 これは実験・観察というヒトーモノの関係に、理論やパラダイムといったものを
通じて、ヒトーヒト関係が介在している(というのが、理論負荷性や社会的構成と
いう指摘だった)ことと、裏腹である。 

 実際に実験室をフィールド・ワークすることは、これまでの科学論では、区別さ
れ切り離されて考えられて来たヒトーモノ、ヒトーヒトの関係が、互いに入れ子状
に絡み合って、はじめて成立することを明らかにし始めた。この関係のあり方は、
実験室での科学者同士の論争の始め方や議論の決着のつけ方、そして実験の仕方、
あり方、実験の終え方(それは研究室内の科学者同士の議論の決着と強く結びつい
てる)などについても、言えることだった。 

 たとえば、シンプルな例として、ある研究の実験結果を追試するとしよう。ここ
で、科学的知識の普遍妥当性とは裏腹な、科学的実践のローカリティが浮かび上が
る。実験の追試は、誰でもできる訳ではない。論文通りの実験装置を必要な精度で
組み上げ、これまた必要以上の精度でデータを採取するには、研究室には実験装置
ばかりか、それを扱える能力と人員、チームを率いるリーダーに、それら全部を担
保する研究費などなど……。追試できるのは、同じ分野で同じテーマを研究し、同
レベルの研究を遂行できる研究室(研究チーム)に限られる。ここには科学研究の
もつ、そして科学研究を他の社会的営為から分かつ、物質性と遂行可能性は現われ
ている。

 このようにとらえることは、科学の価値をいささかも毀損しない。むしろ社会や
文化の有り様次第で「なんでもあり」の、社会構成主義のもつ相対主義の罠から科
学を救い出し、また科学哲学者が想定する美しく抽象的な、自然とまるで無媒介的
に向かい合う科学者といったファンタジーを拭い取る。科学は「なんでもあり」ど
ころではない、科学研究をそこかしこで制約する物質性と遂行可能性は、それを手
がかりにして初めて崖を上れる、科学研究の足場でもある。かのウィトゲンシュタ
インは、摩擦のない場所では前へ進めない、と言った。

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     発行元:くるくるPATIO
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