2009/11/22
JOG-Mag No.624 天皇への道(下)~ 皇太子をお護りした人々
■■ Japan On the Globe(624) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■
国柄探訪: 天皇への道(下)~ 皇太子を御護りした人々
皇太子は、なんとしても皇室をお護りしよう人々
の思いを受けとめながら、成長されていった。
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■1.「月の沙漠を はるばると」■
アメリカ軍が皇太子殿下を本国に強制拉致する可能性がある、
との情報に、高杉善治・陸軍中佐は、万一の場合、殿下に会津
若松に避難いただくという対策を立てた。
その上で穂積侍従長に「私どもが生きてある限り、絶対に殿
下のご安泰をご守護申し上げます所存ゆえ、どうぞご安心下さ
い」と力強く申し上げた。この時の心中を中佐はこう語ってい
る。
このとき、私のからだ中に熱い血がかけめぐるのを覚え
た。その責任の重大さ、その光栄、わが20年の軍人生活
のうちに、皇室から受けたご恩寵にお報いできる最後の機
会である。また軍人として死所を与えられたという悦びと
勇気とが、火の玉となって私のからだをかけめぐったので
ある。[1,p93]
生徒らの動揺を避けるため、この計画は極秘のうちに準備さ
れ、いざという場合には、いつでも実行できるようにしておい
た。
奥日光の八月末は、夜ともなると冷え込むので、夕食の後は
生徒たちは食堂のストーブを囲んで、『月の沙漠』などの歌を
歌った。
月の沙漠を はるばると
旅のらくだが 行きました
森閑とした山奥で、少年の澄みきった声が響くとき、高杉中
佐は、月の夜に殿下が馬に乗られて会津落ちされる光景を想像
して、胸を締めつけられる思いがした。
殿下は、そんな計画など知るよしもなかったが、ときどき歌
をやめ、うつむいて何か物思いにふけるように考え込んでおら
れた。
■2.小金井の御仮寓所へ■
奥日光にも占領軍がやってきたが、昭和天皇が「戦争遂行に
伴うすべての事に全責任をとる」と言われてマッカーサーを感
動せしめられた事も手伝ってか[a]、高杉中佐らが心配したよ
うなことは起こらなかった。
いよいよ東京に帰る算段をしなければならなかったが、殿下
のかつてのお住まいであった青山御所内の東宮仮御所は空襲で
灰燼に帰していた。殿下お一人だけでなく、約50人の東宮職
の職員がいたので、彼らを収容する場所を考えなければならな
かった。しかし陛下からは、多くの国民が防空壕生活をしてい
る時に、住まいを新築するなど絶対にならぬ、と言われていた。
そこで葉山御用邸の近くにあった供奉(ぐぶ)員宿舎を武蔵
野の小金井に移築して、仮の御所とすることになった。
昭和21(1946)年5月、殿下は移築された御所に入られた。
古い家を使ったものなので、きわめてお粗末であり、周囲の垣
も節穴だらけの板塀一枚で、節穴から御座所が覗けるありさま
であった。
軍事教官だった高杉善治中佐は、陸軍の解体とともに軍職を
退いたが、引き続きご警衛係として、殿下のお側でお仕えする
ことになった。
■3.御所の自給自足■
こうして住まいの方は何とかなったが、食糧難の方は深刻で
あった。配給食糧だけではとても足りないので、一般の国民は
農村に買い出しに行って、ヤミの食糧を補充していた。しかし、
御所の職員は職業柄、そんな事はできず、御料(殿下のご食糧)
にも事欠く状態であった。
そこで御所の周辺の空き地を畑にして、食糧を自給自足でき
るようにしようということになった。職員たちは勤務の余暇に
にわか百姓となって、空き地の開墾を始めたが、草を刈り、根
を掘り返す重労働に、手は豆だらけ、体はくたくたになってし
まった。それでも手に包帯を巻きながら、作業を続けた。
最初に主食となるジャガイモを植えた。近所の農家から種ま
きや除草のやり方を教わり、侍従や侍医も暇さえあれば、農作
業に精を出して、6月にはどうやら第一回目の収穫が出来た。
皆で自作のジャガイモを掘り出して、リュックに詰めた時のう
れしさは忘れられないものとなった。
殿下も放課後に慣れないお手つきで鍬(くわ)を持って、畝
を切ったり、種まきをされた。また朝には作物の成長をご覧に
なって、楽しんでおられた。
御所の近くに横山正次さんという篤農家がおり、一家総出で
殿下用の御料畑の種まきから手入れまで、指導しながら手伝っ
てくれた。さらに3男坊の三衛君(当時16歳)を専属でつけ
て、御料畑の手伝いをしてくれた。農家育ちの16歳の少年は、
サツマイモ、小麦、スイカ、キュウリ、大根なども見事に育て、
主食と野菜はどうやら自給できるようになった。
また、近所のお百姓さんたちも、野良着のまま御所にやって
きて「おらが畑でとれらもんだで、東宮さまに召し上がってい
ただこうと思って、持ってきやんしたでがす」と、野菜や果物
を献上しれくれたこともたびたびだった。
■4.ヒヨコを育てる■
ある時、殿下が高杉氏にこんな相談を持ちかけた。いかにも
力のないお声だった。
このまえ皇居にいったとき、あちらでは鶏を飼っていて、
毎朝卵を産んでいるので、ここでも飼いたいと思って、事
務のほうへ相談してもらったけれど、予算がないからだめ
だと断られたの。僕は鶏が好きで飼ってみたくてしようが
ないんだが、なにかうまい方法はないかしら。
高杉氏は「なんとか工夫してみましょう」と答え、事務所に
行って交渉してみたが、「予算がないからとてもできない」と
いう。当時の殿下の内廷費(私生活および学習等の一切の費用)
は年額わずかに1万円と、高杉氏の給料より少ない金額だった。
この終戦下の時代でも、金持ちの中にはヤミで銀飯(白米)
を食べている者も多数いるというのに、殿下が鶏の5羽や10
羽飼うことができないとは情けない、と高杉氏は思った。
立川の農事試験場に相談に行くと、そういうことなら、と元
気なヒヨコを10羽分けてくれた。代金を払おうとしたが、ど
うしても受け取ってくれない。
思いがけぬ試験場の好意によって得られたヒヨコを、高杉氏
は板きれで作った小箱に入れて、殿下にお見せした。殿下は小
躍りせんばかりにお喜びになって、ヒヨコを掌に載せると、そ
の体をいつまでも撫でておられた。
事務所が飼料の予算を出してくれないので、御料の畑でトウ
モロコシを作り、それを餌にすることにした。横山少年の献身
的な世話で、ヒヨコも順調に育っていった。
彼はおしゃべりもせず、いつもただ笑顔で、黙々と陰ひなた
なく、誠実に働いた。毎朝、鶏舎を訪れる殿下の嬉しそうなお
顔を見て、心ひそかに満足しているようであった。
■5.勤労奉仕の青年男女■
当時は皇居の焼け跡片付けに、全国から自主的に多数の青年
男女が上京して、勤労奉仕をしていたが、殿下の御所にも毎日
十数人の奉仕者がやってきた。
終戦直後で物資が不足し、交通機関も混乱していて移動する
だけでも難儀なときに、はるばる青森や九州から、皇居や御所
の復旧のために、食糧持参で来るのである。
勤労奉仕の人々が作業を終えて帰るときは、殿下も学習院の
制服姿でお出ましになり「ありがとう、ご苦労様でした」と、
心のこもった感謝のご挨拶をされるのが常であった。
奉仕者たちは、殿下のお姿を拝し、直にお言葉を聞く光栄に
感激するとともに、この荒れ果てた御所での質素なご生活を目
の当たりにして、なかには涙を流して顔をあげられない者もい
た。
■6.竹中青年の志■
そんな奉仕者の一人に、岐阜県出身の竹中太郎という青年が
いた。彼は一行と共に勤労奉仕のため御所にやってきて、奉仕
の仕事をしたのだが、御所のあまりにもお粗末な様に心を痛め
た。そこで各地から集まった青年たちと話し合って、高杉氏に
次のような申し出をした。
全国の農村青年が各県から数人ずつ一か月交替で奉仕し
て、日夜、殿下のお顔を拝しながら、修養と農業研究に励
みたいということになりました。費用はもちろん自弁で、
米、みそ、しょうゆなども持参してきますから、宿泊する
ところだけ貸していただければ結構です。この御料農園を
われわれ農村青年の聖地として奉仕したいのです。
高杉氏は竹中青年たちの忠義の志には感激したが、侍従た
ちとも相談した結果、アメリカ軍の占領下で、皇太子殿下を
中心に全国青年が結集する事はあらぬ疑いを招く、と考え、
そのむねを竹中青年に説明した。
竹中青年は「よく分かりました」と納得したが、「青年団
として無理だったら、私個人の資格で許していただけません
か」となおも食い下がった。郷里の田畑は妻に任せ、自分は
助手の青年と御所に住み込んで奉仕をするという。
高杉氏は竹中青年の熱意に動かされて、申し出を受け入れ
た。竹中青年は助手とともに、粗末な納屋に寝泊まりして、
毎朝5時に起きては、御料農園の農作業に打ち込んだ。
無報酬の奉仕作業だったが、竹中青年は時折、殿下から
「ありがとう」と声をかけられるのを無上の光栄と感じ、そ
の感激を繰り返し高杉氏に語るのだった。
■7.人々への思いやり■
多感な少年時代に、このように自分のために誠心誠意尽く
してくれる人々に囲まれて成長されていった事で、殿下は人
びとへの思いやりの心を一層、深められたのだろう。
ご通学の際は、御所の東門から出られるのだが、ある日の
朝、いつものように東門を出られると、そこに立っている皇
宮警手が敬礼をした。殿下は答礼をなさって少し歩かれてか
ら、高杉氏に「きょうは星野はどうしたのかしら?」と聞か
れた。
そう聞かれて高杉氏が振り返ってみると、たしかにいつも
東門に立ち番をしている老警手の星野氏ではなく、別の人が
立っていた。
昭和24年12月28日夜、冬休みに殿下が葉山の御用邸
に泊まられている際に、小金井の御所が全焼するという事件
が起こった。ご食堂の引き込み線の漏電が原因であった。火
の手が上がってから、数人の宿直員が必死に消火にあたった
が、間に合わなかった。警衛の一人、八十島三郎氏は火の海
になっていた御座所に飛び込んで、殿下の身の周りの品を取
り出そうとして、顔面に火傷を負った。
葉山の御用邸で殿下は弟君の義宮様ととトランプをしてい
る最中に、その知らせを受けられた。びっくりしたようなお
顔をされたが、まず第一に仰ったのは、「それでけが人はな
かった?」ということであった。人命には異状のなかったこ
とにホッとされて、「いま勝負の途中だから、あとで詳しく
聞くから」と再びトランプを続けられた。
殿下にしてみれば、大切なアルバムや記念の品々などがす
べて灰燼に帰してしまったわけで、さぞや残念な思いをされ
ただろうが、そのお気持ちをご表情に出してしまうと、関係
者に責任を感じさせてしまう。そういう思いやりが、とっさ
の間にも働くように、皇太子殿下は成長されていたのである。
御年17歳のことであった。
■8.初めての御外遊■
昭和28年、殿下は初めてのご外遊に出られた。アメリカ
を経由して欧州に渡り、イギリスでエリザベス女王の戴冠式
に、天皇陛下のご名代として参列されたのである。また欧米
の12の国々を歴訪されて、各国首脳、官民と親しく接せら
れて、親善を深められた。
わずか19歳、一般の子弟で言えば、高校を出たばかりの
青年である。しかも、その前年にサンフランシスコ講和条約
が発効して、日本の独立回復直後の大役であった。
列車で北米大陸を横断される際には、沿道の各駅には日本
人の居留民が出迎えた。そうした際には、日中はもちろん、
真夜中でも殿下は必ずホームに下りたって、お応えされた。
4月16日午前5時頃、汽車がカナダのフォー・ウィリア
ムズという駅についた時のことである。雪であたり一面銀世
界となった零度以下の夜明けであった。殿下はお疲れで休ん
でおられたが、ホームでざわざわと大勢の人声がするので、
ふと目が醒めて外を見ると、ホームには2百人あまりの在留
邦人がお出迎えに集まっていた。
殿下はパジャマの上に外套を引っかけて、窓からお顔を出
して、手を振ってお応えになられた。人々は思いがけないお
出ましに涙を流して、万歳を連呼した。戦争中、また戦後も
敵国民として冷たい視線のもとで暮らしてきた在留邦人にとっ
て、祖国とのつながりを感じた一瞬であったろう。その思い
を殿下はじかに感じとられていたはずである。
■9.思いやりの循環■
終戦直後は皇室にとっても危機の時代であった。その皇室
を、多くの国民がひたすらに国を思う無私の心から支え続け
た。
多感な少年時代に、そうした国民の思いを受けとめながら
成長された今上陛下は、いよいよ国民統合の中心としての役
割を果たそうとの御覚悟を固められたのだろう。その御覚悟
は、即位後の20年間に180回以上のご巡幸で全都道府県
514市町村を訪問された御足跡に現れている。[b]
国民が皇室を護り、皇室が国民の幸福を祈る。そうした互
いへの思いやりの循環こそ、我が国の国民統合の基盤である。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(034) 敗者の尊厳
「日本破れたりとはいへ、その国民性は決して軽視することが
できぬ。例へば日本国民の皇室に対する忠誠、敗戦後における
威武不屈、秩序整然たる態度はわが国の範とするに足る」
(中華民国国民政府・王世杰外交部長)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog034.html
b. JOG(581) 国民の幸を願われ20年
両陛下は180回のご巡幸で全都道府県514市町村を訪問
され、770万人の奉迎を受けられた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h21/jog581.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 高杉善治『天皇明仁の昭和史』★★★、ワック、H18
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4898310877/japanontheg01-22%22
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■前号「天皇への道(上) ~ 11歳の御覚悟」
に寄せられたおたより
Navijanさんより
敗戦時の状況がよく判りました。皇太子殿下も当時の情報不
足の中、米軍に拉致されるかも知れないとも予測されるほど混
乱が続いて、ご心労はいかばかりだったかと想像いたします。
それにしても当時の軍人の、下士官の方々の考え方と行動は
見事だと思います。また、私の父を含め、当時の人々の考え方
にも筋が通っていたと思います。当時、日本の再建を誓った人
びとに、今日の日本のていたらくは予想もしなかったのではと
思います。
ドイツの、経済的はもとより精神的にも健全に再建された状
況と、ただ経済的には再建されたものの、自国の国民を拉致さ
れて何も出来ずにただヘラヘラするだけの日本を比較し、とて
も悲しくなります。
また更に、日本人は今回の選挙であろうことか「日本列島は
日本人だけのものではない」と言うリーダーと、日本人の精神
を徹底的にダメにした教育を推進する日教組の親玉を選びまし
た。しかもそれを操る影の人物は、今回の選挙で手下を大幅に
増やし、独裁体制を確実なものにした闇将軍です。
鳩山政権はアジア共同体を唱えており、外国人地方参選権の
成立を目指していますので、このまま進めば日本は中華人民共
和国の日本省を目指している様なものです。
民主主義は多数決の理論ですから、このメルマガがもっと多
数の読者を獲得して多くの人々を啓蒙し、目覚めさせなければ
ならないと思いますし、応援をしたいと思います。
■ 編集長・伊勢雅臣より
ご声援ありがとうございます。国民のレベルが政治のレベル
を決める、というのが、民主主義政治の基本ですね。
読者からのご意見をお待ちします。以下の投稿欄または本誌
への返信として、お送り下さい。
掲載分には、薄謝として本誌総集編を差し上げます。
http://www.formzu.net/fgen.ex?ID=P36920582
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