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2008/04/06

JOG-Mag No.542 白洲次郎(下)〜 日本復興への責任と義務

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■■ Japan On the Globe(542)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

      人物探訪:白洲次郎(下)〜 日本復興への責任と義務
    
        「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々
        の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務を私は感じる」
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■1.「吾々が招いたこの失敗」への「責任と義務」■

     戦後の日本に関して、白洲次郎はこう書いている。

         吾々(われわれ)の時代に馬鹿な戦争をして、元も子も
        なくした責任をもっと痛切に感じようではないか。日本の
        経済は根本からの立て直しを要求しているのだと思う。恐
        らく吾々の余生の間には、大した好い日を見ずに終わるだ
        ろう。それ程事態は深刻で、前途は荊(いばら)の道であ
        る。然(しか)し吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも
        取り返して吾々の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義
        務を私は感じる。[1,p270]

     自分たちは被害者だ、軍国主義者に騙された、という風潮が
    支配的な時代において、「吾々が招いたこの失敗」の「責任と
    義務」を主体的に負おうというのが、次郎の生き様であった。

     昭和21(1946)年4月、戦後初の総選挙で自由党が第一党と
    なったが、社会主義政権誕生を目論むGHQ民政局のケーディ
    スらは、党首・鳩山一郎を公職追放処分にしてまで、組閣を阻
    止した。

     そこで鳩山や前首相・幣原に推されて、吉田茂に組閣の大命
    が下った。その吉田にも公職追放の手が伸びていた。その情報
    を掴んだ次郎は、ケーディスの対抗勢力であるウィロビー少将
    と必死に掛け合って、なんとかそれを阻止した。

     首相に就任した吉田は、マッカーサーに会って「日本を赤化
    させるおつもりですか」と迫った。おりしもソ連との冷戦の緊
    張が高まり始めていた時期でもあり、マッカーサーは、GHQ
    内でとくに「赤い」と目されていた局員を大方帰国させる措置
    をとった。

     米国内では日本を防共の盾とする議論も出てきて、占領方針
    も民主化から経済復興へと力点が移りつつあった。ようやく次
    郎の「責任と義務」を果たす機会が訪れてつつあった。

■2.経済安定本部次長■

     昭和21(1946)年12月、次郎は経済安定本部(後の経済企
    画庁)次長を兼任することになった。半年ほど後に、蔵相・石
    橋湛山が経済安定本部長官兼任となった。石橋も気骨ある人物
    で、GHQ経済科学局の幹部を相手に丁々発止とやりあった。
    しかし、この石橋も任期途中で公職追放となってしまう。

     石橋は軍部を批判して、満洲を放棄し、朝鮮・台湾を独立さ
    せよ、と主張した人物である。そんな人物までGHQは公職追
    放したのだった。

     経済・財政面で石橋を頼りにしていた吉田は、経済学者たち
    をブレーンとすることで、事態を打開しようとした。その根回
    しに次郎が走り回った。目をつけた一人が東京大学経済学部教
    授の有沢広巳(ありさわ・ひろみ)である。しかし、教授が政
    府のブレーンになるというのは一般的でない時代のことである。
    有沢は、次郎が何度頼み込んでも一向に首を縦に振らない。

     そこで次郎が考え出したのが、吉田を囲む週一回の昼食会に
    何人かの著名な経済学者とともに参加して貰う、という方法で
    ある。これにはさすがの有沢も断れず、吉田を囲んでの議論に
    加わった。

     この席で有沢が披露したのが、傾斜生産理論である。限られ
    た資金・資源をまず石炭の増産に集中し、この石炭を鉄鋼生産
    に集中投下するという方法で、これにより生産が急回復し始め、
    復興の起爆剤になった。

■3.民主主義も憲政の常道も完全に無視した独裁者■
    
     昭和22(1947)年年頭、深刻な食料事情の中で頻発している
    労働争議やストライキを沈静化させるべく吉田はラジオで国民
    に呼びかけた。しかしその中で「私はかかる不逞の輩(やから)
    が国民中に多数ありとは信じませんぬ」と口を滑らした。これ
    が労働組合などを刺激して、世情騒然となった。

     GHQ民政局は吉田降ろしの好機と見て、マッカーサーを動
    かし、総選挙を命じた。やむなく吉田は議会を解散して総選挙
    に踏み切ったが、「不逞の輩」発言で支持率が急降下しており、
    片山哲率いる社会党に第一党の地位を奪われてしまった。

     片山は単独では政権を担う自信がないので、自由党からも閣
    僚を送って貰いたいと申し出たが、吉田はきっぱりと断った。
    「主義主張を異にする両党が連立するのは、政党政治の本領に
    反する」と言って、野に下ったのである。

     片山内閣で農相となった平野力三は吉田に近い人物だったの
    で、ケーディスは強引に公職追放にしたが、平野派40名の支
    持を失った片山内閣は総辞職に追い込まれてしまった。ケーディ
    スは肝いりの社会党内閣を、自らの強引な追放措置で潰してし
    まったのだった。

     ケーディスは、その後も政権を野党第一党の自由党に渡さず、
    民主党総裁の芦田均を首相に据えた。ケーディスはいよいよ、
    民主主義も憲政の常道も完全に無視した独裁者となっていった。
    
■4.ケーディスとの最終決着■

     怒り心頭に発した吉田と次郎は、参謀第2部のウィロビーと
    共闘して、ケーディスの追い落としを図った。

     おりしも、昭和電工が大規模な贈賄を行って、復興金融金庫
    からの融資を引き出している、という疑惑が浮上していた。社
    長の日野原は、前社長が吉田やウィロビーに近い人物だったた
    めに公職追放とし、ケーディスが新たに送り込んだ人物だった。

     次郎やウィロビーはケーディスの身辺調査を行い、彼にも多
    額の現金が渡ったという情報を新聞に流して、しきりに報道さ
    せた。ケーディスの影響力は急速に低下していった。

     芦田内閣そのものも、この昭和電工の贈賄事件により、わず
    か7カ月で総辞職に追い込まれた。次郎はウィロビーと共闘し
    て、マッカーサーから、「GHQの総意としては吉田首相で問
    題なし」という確約を得た。吉田は衆議院で多数を得て、昭和
    23(1948)年10月に第2次内閣を発足させた。

     ケーディスはなおも吉田内閣を潰そうと画策したが、吉田は
    国会を解散して、民意を問うた。翌年1月の総選挙では吉田率
    いる民自党(自由党と民主党の一部が合同)が圧勝し、第一党
    だった社会党は143議席から48議席へと激減、党委員長の
    片山まで落選の憂き目を見た。

     ケーディスは失意のうちにアメリカに帰国した。こうして日
    本に社会主義政権を作ろうとする陰謀は未然に防ぐことができ
    たのだが、その陰には次郎の奮闘があったのである。
    
■5.経済復興のための大抜擢人事■

     傾斜生産方式が奏功し、我が国の鉱業生産は戦前の5割程度
    まで回復していたが、GHQ財政顧問として来日したジョゼフ
    ・モレル・ドッジはインフレを沈静化するために、復興重視の
    政策を超均衡財政に転換しようとした。

     次郎は「ドッジ・ライン」と呼ばれる政策が発表された時、
    これまでの努力がすべて水の泡になるのではないかと危惧した。
    ドッジに対抗するためには、経済理論に明るく、押しも強い人
    物を大蔵大臣につけなければならない。そうした人物を求めて、
    次郎は東奔西走した。

     そして見つけたのが、前大蔵省事務次官の池田勇人(はやと)
    だった。吉田は昭和24(1959)年1月の総選挙で、池田を立候
    補させ、当選すると一年生議員にもかかわらず大蔵大臣に大抜
    擢した。当選回数を重ねた議員から囂々(ごうごう)たる不満
    が噴出した。しかし池田は期待通りの活躍を見せた。ドッジと
    も何度も渡り合って、深い信頼関係を築いた。

     池田は昭和34(1959)年に首相となるが、天才的なエコノミ
    スト下村治をブレーンとして、10年間でGNP(国民総生産)
    を2倍にするという「所得倍増計画」をスタートさせ、高度成
    長を実現していく。[a] 
    
■6.「新しい貿易庁を作る!」■

     昭和23(1948)年12月1日、次郎は吉田首相から商工省の
    外局である貿易庁の長官に任命された。次郎は以前から、輸出
    産業を育成し外貨獲得を図るために、商工省を改組してもっと
    強力な組織を作る必要がある、と主張していた。そこで吉田か
    ら「じゃあ、お前やってみろ」と言われたのである。

     商工省は多くの優秀な役人を抱える巨大組織である。それを
    変革するのは、よほどの信念と実行力を持った人物が必要であ
    る。それには次郎しかいない、と吉田は見込んだのである。

     次郎はまず味方にすべき人物を捜した。そこで目をつけたの
    が商工省物資調整課長の永山時雄であった。まだ若かったが省
    内随一の切れ者として名が通っていた。

     次郎は永山を呼んだ。ちょうど、永山の方も商工省の事務次
    官から次郎の動向を探るように依頼を受けていたので、敵情視
    察のつもりだった。その永山に対して、次郎にしては珍しく熱
    弁を振るった。

         今の日本にとってもっとも重要なことは、輸出産業を振
        興させて外貨を獲得し、その外貨でさらに資源を購入して
        経済成長にはずみをつけることだ。ところがこれまでの商
        工省の施策は国内産業の育成が中心だった。これからは、
        貿易行政があって産業行政があるというふうに180度考
        え方を変えていかなければならない。だから、、、

     と息をついで、一気に言い切った。

         占領下で動きのとれない外務省も、軍需省の尻尾をひき
        ずる商工省も、ともに潰して新しい貿易庁を作る!

     永山は全身に鳥肌がたった。純粋に国を思う情熱、先例や常
    識をかなぐり捨てた構想の合理性、先進性。この日を境に永山
    は次郎の信奉者となった。
    
■7.通商産業省の誕生■

     次郎は、永山に「通商産業省(仮称)設置法案」をまとめさ
    せ、翌24(1959)年2月8日に閣議決定に持ち込んだ。就任後、
    わずか2カ月ほどのスピードで、役人たちには反撃の隙も与え
    なかった。

     商工省からは、せめて名称を「産業貿易省」にしてくれ、と
    言ってきた。国内産業重視の看板を下ろしたくない、という最
    後の抵抗である。しかし、次郎は「貿易より産業が先にきてい
    るような名前はダメだ!」の一言。さらに通産省内のすべての
    局に「通商」という名前をつけさせて貿易重視の意識改革を徹
    底した。

     同年5月25日、通商産業省が誕生した。貿易庁から引き継
    ぎにきた事務官に対し、次郎は「引き継ぎするものなど何もな
    い。お前らは通産省を貿易庁の後身だと思っているのか。過去
    は振り替えらんでいい。これからまったく新しい行政を始める
    んだ」と言って、一切の引き継ぎを拒んだ。

     そして通産省の次官や局長には、次郎が目をつけた優秀な官
    僚を配置して、立ち上げを確固たるものにした。その上で、自
    分はさっと身を引いてしまったのが、次郎らしい無私な所であっ
    た。

     この後、通産省は日本経済の「参謀本部」として高度成長に
    向けて牽引していく。
    
■8.「何だこれは! 書き直しだ」■

     昭和26(1951)年9月、吉田茂は講和条約に調印すべく、サ
    ンフランシスコに向かった[b]。次郎も顧問として随行した。
    調印式の後には吉田による受託演説が予定されていたが、吉田
    はその二日前に、次郎に演説草稿のチェックを頼んだ。

     外務省の役人が持ってきた草稿を一目見るなり、次郎は渋面
    を作った。英文だったからである。「日本人は日本語で堂々と
    やればいいじゃないか!」

     内容も問題だった。占領に対する感謝の言葉が並んでいて、
    まるでGHQに媚びているような文面である。

        「何だこれは! 書き直しだ」

        「ちょ、ちょっと待ってください。事前にGHQ外交部の
        シーボルト氏やダレス顧問にチェックしてもらったもので
        すから、勝手な書き直しなんかできませんよ」

        「何だと! 講和会議でおれたちはようやく戦勝国と同等
        の立場になれるんだろう。その晴れの日の演説原稿を、相
        手方と相談した上に相手国の言葉で書くバカがどこの世界
        にいるんだ!」

■9.ウィスキーのグラスをあおりながら■

     次郎はサンフランシスコのチャイナタウンで和紙の巻紙を買
    い求めさせ、毛筆で書き始めた。

     懸案である奄美大島、琉球列島、小笠原諸島の返還にも言及
    した。外務省の役人は必死に止めようとしたが、次郎は
    「GHQを刺激するから触れるなだと。バカヤロー、冗談を言
    うな」と一喝した。「小笠原や沖縄の人々の気持ちにもなって
    みろ」という思いだった。

     草稿は吉田の演説直前にできあがった。長さは約30メート
    ル、巻くと直径10センチほどになった。ぶっつけ本番となっ
    たが、吉田は悠揚迫らぬ態度で読み上げていった。

     日本の新生を世界に報ずる一大イベントも無事に終わった。
    次郎はマーク・ホプキンス・ホテルの自分の部屋のソファーに
    身を沈めた。早いピッチでウィスキーのグラスをあおりながら、
    次郎は泣いていた。

     敗戦後、わずか6年だったが、いろいろな事があった。屈辱
    的な憲法改正、赤いGHQ将校たちとの死闘、そして通産省創
    設など経済復興への段取り。

    「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々の子
    供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務」の幾分かは果たせた
    のである。サンフランシスコの夜は静かに更けていった。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(103) 下村治
    高度成長のシナリオ・ライター。 
   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog103.html
b. JOG(206) サンフランシスコ講和条約
   「和解と信頼の講和」に基づき、日本は戦後処理に誠実に取り
   組み、再び国際社会に迎えられた。
   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog206.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 北康利『白洲次郎 占領を背負った男』★★★、講談社、H17
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062129671/japanontheg01-22%22

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■前号「白洲次郎(上)〜 占領軍総司令部との戦い」に寄せられ
  たおたより

                                       「おっしー」さんより
     どういう経路で、このメルマガを登録したのか、忘れてしまっ
    たのですが・・・(笑)最近、日本再生に繋がるようなものを
    読み漁っています。

     私も、3年程前に、GHQの占領政策のことを知り、目覚め
    ました。自然な気持ちで、日本を愛する人が増えて欲しいと願っ
    ております。

     白洲次郎の話は良かったです。まずは、多くの人に、アメリ
    カとの4年間の戦争で敗戦したことはもちろんのこと、7年間
    も占領されていた事実というのを知ってもらいたいです。

     あまり、イデオロギー的な感じでなく白洲次郎のように、ド
    ラマになりそうな人物にスポットを当てれば、多くの人に、心
    の抵抗なく知ってもらえるのではないかと期待しています。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     イデオロギーでなく、人の生き方を通じた歴史こそ、本当の
    歴史ですね。

     読者からのご意見をお待ちします。以下の投稿欄または本誌
    への返信として、お送り下さい。
     掲載分には、薄謝として本誌総集編を差し上げます。
    http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jog/jog_res.htm

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Mail: nihon@mvh.biglobe.ne.jp または本メールへの返信で
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             http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm
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